今日の個所は、なんども、私たちに、希望を与えてくれた、神のみことばです。さて、紀元前597年、南ユダは、首都エルサレムがバビロンにより包囲されて、陥落し、第1次捕囚がありました。その時、エコヌヤ王(エホヤキン王)と王母、宦官たち、貴族たち、技術者たちが、捕えられてバビロンに連れ去られました。2節が示すように、29章の1節の出来事はそのあとのことです。バビロン王は、ゼデキヤ王を立てて、南ユダを治めさせました。そのゼデキヤ王が、バビロンに使者を遣わしました(3節)。その使者の手に、エレミヤは、主からのことばを記したものを渡します。その宛先は、バビロンへ連れて行かれた捕囚の民、また、生き残っている長老たち(多くの長老は処刑されて、残りは少なかったと思われる)、祭司たち、預言者たちなど全ての民に宛てられたものででした(1節)。1節―9節は、エレミヤによるバビロンへの手紙です。その内容は、捕囚となったバビロンに住みつき、落ち着いた生活をして、バビロンの繁栄のために祈るように、なぜなら、バビロンの繁栄は、神の民の繁栄となるから、ということでした。また、偽預言者たちや占い師や、夢見る者たちのことばに惑わされてはいけない、という内容でした。敵の国に住んで敵のための繁栄を祈るなど、人間中心の世界観を持つ者には到底、考えられないことです。しかし、主なる神の視点は違いました。主の裁きに服して、敵の繁栄のために祈るとき、それが、自分たちの祝福となって戻ってくるとの約束です。10節―14節は、神の解放の約束です。主の計画は、民たちが、神の裁きに服したあと、70年が満ちる時、バビロンから解放されて、エルサレムに戻るという、素晴らしい祝福と希望の計画を立てていることを明らかに示しました。15節―23節は、偽りの預言についてです。偽預言者たちは、バビロンにおいても活動していました。そして、捕囚にはならなかったエルサレムに残っている者たちについて、偽預言者たちは、彼らを祝福のしるしとして預言していました。つまり、バビロンに行ったものたちは、呪われた者たち、エルサレムに残った者たちは、神の祝福のしるしだというのです。それに対して、エレミヤは、エルサレムに残った者たちは、決して祝福のしるしではなく、彼らはみな、剣と飢饉と疫病で滅びることになる呪いのしるしであると、宣言しているのです。24節ー32節は、バビロンにいたシェマヤから、エルサレムにいる祭司たちに送った手紙です。バビロンにいたシェマヤは、エルサレムから送られたエレミヤの手紙の内容を明らかにし、エレミヤを捕えて処罰すべきである、と強い語調で、神の宮の監督の職務にある祭司ゼパニヤに訴えています。エレミヤはゼデキヤ王の保護のもとにありましたので、祭司ゼパニヤは、その手紙を携えてエレミヤのところに行き、シェマヤからの手紙を読んで聞かせました(29節)。そのとき、エレミヤに主のことばが与えられました。シェマヤは、主が遣わされた預言者ではないこと、シェマヤは民たちを惑わしたので、その子孫は、捕囚から無事帰ることはないと、宣言しました。
今日の聖書箇所から教えられることは、昨日の個所に続いて、偽預言者のことが問題になっています。真の神のことばを語るとき、敵もまた活発に活動することが分ります。ふたつにひとつ、正しい選択ができるように、お祈りしていきましょう。それは、今、私たちが必要としていることです。例えば、「進化か創造か」というテーマも、真の預言者の必要性を示しています。
清宣教師