昨日のイザヤ書2章においては、とても大事な聖句が含まれていました。2章13節です。「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて。多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」私たちを取り巻く世の中はまさにそのような状況です。しかし、私たちの心の中はどうでしょうか?私たちの意に反して、神の国と神の義ではなく、もろもろの世の価値観に影響されて、さまざまな水ためを掘っている姿に気付きます。湧き水はひとつしかないのに、仕事や娯楽や趣味などに、喜びの水をもとめているのではないでしょうか。それは水ためであり、一時的なものですぐに枯れてしまいます。聖霊様の喜びの泉こそ、私たちの渇きをいやす唯一の湧き水の源です。今日の3章では、「ヨシヤ王の時代に」と記されていますから、エレミヤが預言者として召されてまもなくの預言であると思われます。「背信の女」とは「北イスラエル王国」のことを指し、「裏切る女」とは「南ユダ王国」を指しています。姉の北イスラエル王国が、主のさばきにより、アッシリアの手によって滅びました(紀元前721年)。それにもかかわらず、それを警告として悔い改めることをしない妹の南ユダ王国に対して、この預言は語られています。背信とか裏切りということばが、この3章では、合計13回も使われています。かつては神の民と呼ばれた人たちが、偶像を礼拝し、背信の道をあゆんでいるのです。私たちクリスチャンもまた、現に、神の民と呼ばれています。私たちの生活をみるときに、心の中をみるときに、神様を第一としているかを問われます。思い煩い、心配、不信仰、競争心、プライドなど、すべてこれらの事柄は、神様を第1とする人のものではありません。まさに、神様よりも自分を第1としている結果であることに気付く必要があります。あるいは、神様よりも、まわりの状況、金銭、対人関係などに重きを置いている結果であることに気付く必要があります。主なる神は、「背信の子らよ(複数形)、帰れ」と呼びかけておられます。主なる神は、北イスラエル王国も、南ユダ王国も、主に背いた民であるにもかかわず、決して変わることのない愛をもって、帰って来るように呼びかけています。そして、わたしが、「あなたがたの夫になるからだ」と語りかけておられます。余談ですが、これは西多賀教会のオリジナル賛美「帰れ、背信の女」が生れるきっかけになった聖句でもあります。この西多賀教会のオリジナル賛美は、メシヤニック賛美集に取り入れられて、北海道から沖縄まで、賛美されています。「妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った」(20節)と主はハッキリと宣告されました。その悲劇的な結果についてのべたあと、「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」(22節)と明確に宣言されました。それに対して、エレミヤは自分たちの非を認めて、主に立ち返る応答の祈りで答えています。しかし、実際には、南ユダ王国は自分たちの歩みを改めることなく、神に裁かれて、エルサレムも南ユダ王国も崩壊しました。そのことを考え合わせると、エレミヤは、民のあるべき姿を応答の祈りとすることにより、神のみこころを示したのであると思われます。
今日の聖書箇所から教えられることは、神の民に偶像はふさわしくないことです。今日、私たちに対して主なる神様は、もろもろの心配、思い煩い、偶像を捨てて、主なる神のもとに帰るように命じています。私たちの心と生活の第1に、主なる神を置く時に、すべての心配、思い煩い、プライド、競争心、妬み・・・などが消え去り、聖霊様から来る、愛、喜び、平安・・に満たされます。
清宣教師