エレミヤ34章です。バビロン帝国のネブカデレザル王は、自国の軍隊と共に、バビロンの支配下にある諸国の軍隊を引き連れて、大挙して、南ユダに攻め込みました。いまや南ユダの町々は破壊され、南ユダ王国も滅亡の一歩手前まで追い詰められていました(1節)。そのようなとき、主はエレミヤに対して、ゼデキヤ王に、エルサレムの滅亡の預言を伝えるように命じられました。その預言の中には、ゼデキヤ王がバビロンの王ネブカデレザルに捕えられ、バビロンに引いて行かれるという預言も入っていました。そこで、エレミヤは、このすべての預言をエルサレムでユダの王ゼデキヤに伝えました。おそらく、エルサレム陥落(紀元前586年)の1年または1年半前の頃であったと思われます。(2節―7節)。そのような状況の中、ゼデキヤ王は、かつて主が律法の中で命じられていたように、自分たちの同胞でありながら奴隷になっている者たちを解放することを決議して、実行しました(8節―10節)。それは主のみこころにかなう義の行いでした(13節―15節)。ところが、ゼデキヤ王と首長たちや民たちは、その契約を一方的に破棄して、再び、奴隷を自分たちのところに連れ戻して、仕えさせました(11節、16節)。これには事情があったようです。バビロン軍によってエルサレムが包囲されている状況では、奴隷たちを耕作地などで働かせることは出来ませんが、一方で、彼らの生活のために衣食住のお世話をしなければなりません。そういう意味では、奴隷がいることにメリットがなかったようです。奴隷を解放して、彼らの生活を維持する義務から解放されたほうが、経済的な負担が少なくて済むのです。つまり、ゼデキヤ王の提案は、首長たちや支配者層の人たちに受け入れられやすいものでした。しかし、彼らは、一転して、契約を破り、奴隷を連れ戻しました。それは22節に示唆されていますが、エルサレム陥落(紀元前586年)の1年半くらい前に、エジプトからの支援軍が北上してきたため、バビロン軍がエルサレムの包囲を解いて北方に、一時的に退いた時期がありました。どうやら、ここで奴隷たちを耕作地に戻して使役する必要性が出てきたと思われます。それにしても、この奴隷解放の契約は、主の前で、子牛を断ち切って二つに分けて、その間を通るという契約でした。つまり、これは当時のやり方で、もし契約を破るなら、その破った者は、子牛が真っ二つに断ち切られたようにされても構わないことを意味するものでした。ゼデキヤ王をはじめ、ユダの首長たち、宦官と祭司と一般の住民が、二つに分けた子牛の間を通ったのです(19節)。このような不義を行った者たちを、主は必ず、裁かれることを宣言されました。そして、主はバビロン軍を呼び戻し、エルサレムもユダの町々もすべて滅ぼすと宣言されたのです(22節)。そして、後日、預言の通りになりました(列王記、第2、25章参照)。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちも悪事を悔い改めて正しいことを行なった時、決して再びもとの悪事に戻ってはならないことです。そんなことをすれば、元の状態よりももっと悪いことが起こってしまうからです。
清宣教師