昨日までの45章から、きょうは一転して、諸国の民についての預言がまとめられています。エレミヤ書の主な目的は、エルサレムの崩壊と南ユダ王国の滅亡、それにバビロン捕囚に関する預言でした。しかし、今日の46章からは、イスラエルではなく、イスラエルとかかわりを持つ諸国への預言のことばです(46章1節)。最初がエジプトに関する預言です(46章2節)。歴史的な背景ですが、第2列王記、23章29節―35節を見ると、エジプトの王、パロ・ネコの軍勢は北上して、ユーフラテス河畔のカルケミシュにまでエジプトの勢力を拡大していきました。しかし、やがて、バビロンの王ネブカデレザルはユーフラテス川に沿って、西へ進み、さらに、南下して、パロ・ネコの軍勢を打ち破った時の預言です(46章2節‐11節)。エジプトは古代から優秀な馬の産地でした。それで、「騎兵よ。馬に鞍を付けて乗れ」と叫ぶ声があがります(4節)。これは押し寄せるバビロンの軍勢に対して、エジプト軍が迎え撃つために、騎兵たちに呼びかけることばです。ところが、バビロン軍に恐れをなして敗走するのです(5節―6節)。7節―9節は、ナイル川のように奔流となって進むエジプト軍の様子です。しかし、10節以降、万軍の神は、ネブカデレザルの軍勢をもってエジプトを裁かれます(11節―12節)。そして、13節以降は、「エジプトの国を打つことについて」という表題がついているように、エレミヤがエジプトに強制的に連行されたとき、途中タフパヌヘスにおいて、エレミヤは将来、バビロン軍が南下してエジプトを打つことを預言しました。エジプトをはじめ、ミグドル、ノフ(メンフィス)、タフパヌヘスの諸都市は、エジプトの支配下にある都市です。「北からアブが襲ってくる」(20節)という表現は、北の国であるバビロンを指しています。つまり、バビロンが襲来して、誰もそれを防ぐことは出来ないので、みな逃げ去ってしまうという預言です(24節)。25節以降は、繰り返しですが、イスラエルの主なる神は、バビロンの王を裁きの器として用い、エジプトを裁くと宣言しています。今まで何度も言われてきたことですが、主はバビロンの王ネブカデレザルを審判の器として用いると語られています。27節と28節は、イスラエルの民の回復の預言です。神の救いのわざは、一方ではエジプトへの裁きとなり、他方ではイスラエルの救いをもたらすものとなるのです。エジプトは裁かれますが、イスラエルはやがて回復されるという約束です。
今日の聖書箇所から教えられることは、主は生きておられ、歴史を支配されるお方であるということです。神の民は、馬の多いことによって、つまり、圧倒的な軍事力によって勝利するのではなく、天と地の造り主であり、全能の主である神に信頼することによって勝利するのです。しかし、イスラエルは、これまで見てきたように、王たちも民たちも、主に信頼することから離れて、偶像に信頼するようになりました。それはとりもなおさず、異教の世界観、価値観に染まってしまうことに他なりません。イスラエルも南ユダも、こうして、滅びました。私たちにも、イエス様の山上の垂訓があります。「神の国と神の義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイの福音書6章33節)。私たちの生活を支えるのは誰ですか、給料を与えるのは誰ですか。ご主人ですか、会社ですか、お客さんですか、誰ですか。それは、すべての背後にあって必要な物をすべて支給して下さる神様です。すべての富の源は創造主なる神様です。ですから、主はご自身の権威をもって宣言されます。「神の国と神の義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイの福音書6章33節)。
清宣教師