きょうのところも、比較的、分りやすい個所ですね。さて、一般論ですが、日本語の聖書の翻訳にあたり、訳者は、「私」と「わたし」の区別を意識的にしているようです。漢字の「私」は、人間のこと、例えば、エレミヤ書では、エレミヤ、「私たち」というと、ユダの民など。一方、「わたし」は、主ご自身のことを指しているようです。これを知っていると、理解するのに助けになります。さて、1節:私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら・・・預言者エレミヤのことばです。昨日の8章18節、「私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている」から続いているエレミヤ自身の嘆きのことばです。涙が尽きないのです。もちろん、これは預言ですから、まだ、エルサレムの滅亡は実現していません。でも、実現しているかのように心は悲しみでいっぱいなのです。数百年後、イエス様がエルサレムの滅亡を預言して涙を流されましたが(ルカの福音書、19章41節参照)、しかし、実際に滅亡したのはそのことがあってから約40年後のことでした。エレミヤが預言したときは、エルサレムは繁栄していました。しかし、エレミヤは、預言を通して滅亡を見たのです。2節以降は、ずっと、ユダの民の悪事、罪を明らかにしていきます。彼らは表面上は主を礼拝するようにふるまうのですが、実際にはバアルを礼拝しているのです。17節、「泣き女」とは葬儀の際に泣くプロの女たち、「巧みな女」とは哀歌をうたうプロの女たち、のことです。しかし、「あまりにも死者の数が多いので、葬儀のプロたちの人数では到底足りなくなるから、あなたがたの娘にも、隣の女にも、あらかじめ、葬儀のための哀歌を教えておきなさい」と警告しています。22節:バビロンの軍勢のために、南ユダの死者は、畑の肥しのように野ざらしにされる。26,27節:外面的な宗教上のしるしである、割礼も、こめかみを刈り上げていても、何の役にも立たず、滅ぼされる。心に割礼を受けている者だけが救われる。以上です。
今日の聖書箇所から教えられることは、23節ー24節です。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。」いまの世の中で通用するのは「知恵」「強さ」「財力」です。それらを誇るのが世の価値観です。しかし、主は、違うと言われています。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公儀と正義を行うものであり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。」私たちは、自分の知恵や強さや富を誇ってはならない。それはダメ。私たちは、主のみこころのように、恵みを愛し、公儀を愛し、正義を行う生き方をするときに、主が喜ばれます。
清宣教師