15章は、イスラエルの民(とくにエルサレムの住民)をブドウの枝に例えて、ブドウの枝が実を結ばなければ何の役にも立たないので焼き尽くされてしまうように、偶像礼拝など、むなしいことを繰り返すエルサレムの住民はみな、バビロンの手により焼き滅ぼされるという警告の預言です。以下、詳細です。2節、人の子とはエゼキエルのことです。森の木立の間にあるブドウとは、野生のブドウを意味しています。その枝だけを見るなら、他の木より優れている点はあるだろうか? 優れている点は何もないであろう。3節、その木は他の木のように机とかイスとか、なにかを作る木工の材料になるだろうか?ならない。では、曲がった枝を、鍋をかける木カギにでも利用できるだろうか?できない。私は、大学時代、圃場の果樹園に葡萄が栽培されていましたので、良く観察する機会がありました。葡萄の枝は、御菓子のパイの皮のようで、サクサクしています。しかも、枝は、少し力をかけるとポキポキ折れてしまいます。ですから、木工の材料にも、鍋をひっかけるようなカギをつくることも出来ません。枝だけでは役に立ちません。つまり、ブドウの枝が役に立つのは、栄養のある美味しい実をつけた場合です。実を結ばない枝は役に立ちません。4節、だから、実を結ばない枝は、たきぎとして火にくべられるだけです。しかし、その枝も、すでに、両端が燃えていて、真ん中も焦げている状態では、何の役にも立ちません。つまり、枝の両端が燃えるとは、北イスラエルがアッシリアに捕囚となり、南ユダがバビロン捕囚となること、枝の中ほどが焦げるとは、中央にあるエルサレムが、すでに、敵に取り囲まれて、内部からもクスぶりはじめ、崩壊しつつある状態をさしています。6節、エルサレムの住民は、神の民としての役割を果たさず、無益なものとなったので、主は、エルサレムをバビロンの手に渡して、焼き尽くすというのです。(エルサレムは、預言通り、BC586年、王宮も、神殿も、すべての住宅が焼き尽くされました)7節、エルサレムが焼き尽くされて初めて、主の預言が正しかったことを思い起こし、主がまことの神であることを知るのです。8節、不信に不信を重ねたきたエルサレムとイスラエルの地は、住む者がいなくなり、荒廃するのです。(これは主の裁きによるのですが、主の裁きのゆえに、希望が残されています)。今日の個所は、イエス様が語られたメッセージと共通しています。ヨハネの福音書、15章16節、そして、15章1節―8節を参照してください。今の時代に生きている私たちクリスチャンは、みな、まことのブドウの樹であるイエス様に繋がる枝です。もしも、イエス様のいのちに、しっかりとつながっていなければ枯れて、実を結ぶことが出来ません。そして、最後の裁きの時に、裁きの火により、焼き尽くされてしまいます。しかし、生ける神の御子、イエス様のいのちに、しっかりとくっ付いているなら、必ず、豊かな実を結びます。主イエス様のいのちにあって、私たちは生かされています。イエス様は、ご自分のいのちの代価を払って、十字架の苦しみと死をもって、私たちのすべての罪を洗い清め、聖霊様によって、私たち一人一人が、神の子として生きることができるように、神の子としてのいのちを与えてくださいました。キリストのいのちが私たちのうちにあります。喜びのいのち、平安のいのち、愛のいのちによって生かされています。私たちはブドウの枝です。キリストは、まことのブドウの樹です。私たちが、イエス様のいのちにあって生かされる時、必ず、主の栄光を表す、豊かな実を結ぶ人生を送ることが出来ます。
清宣教師