バビロンにいるユダヤ人の長老たちが、預言者エゼキエルのもとに来て、主のみこころを尋ねました。エホヤキン王が捕囚となってから7年目(紀元前591年)のことでした。前回、長老たちがエゼキエルのもとにやってきた8章の出来事から11カ月が経過していました。さて、この時期は、エルサレムが最終的にバビロン軍により攻撃される1,2年前のことで、政治的な緊張が続いていた時期と考えられます。すでにバビロンによって捕囚となっている長老たちが、故国エルサレムの状況を案じて、預言者エゼキエルに尋ねているのです。でも、主の答えは、「わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない」でした。つまり、捕囚の民たちや指導者たちも、まだ、祖国の首都エルサレムは神の宮がある町であり、主が守って下さるに違いない、と思っていたのです。でも、すでに、主はエレミヤを通して、あるいはエゼキエルを通して、エルサレムの滅亡を何度も語られていました。エルサレムの滅亡という、主の審判はすでに決まっており、変える余地はないのです。その理由は、ユダ王国の歴代の王たち(ユダの民を含めて)が、主を捨てて、偶像礼拝に陥り、主のみこころに背いて来たからです。それで、主は、再び、エゼキエルを通して、その理由を長老たちに語りました(5節~32節)。イスラエルの民たちの不信仰は、出エジプトの時までさかのぼることが出来ます。主は、奴隷の状態にあったイスラエルの民たちを、紅海を真っ二つに裂き、自由の民として脱出させました。それにもかかわらず、幾度も荒野において主に逆らい、偶像礼拝をおこない続けました。しかし、主は憐みをもって赦し、悔い改めを促しました。そして、約束の地に導き入れましたが、その後も、イスラエルの民は、安息日を守らず、幼子たちに火の中をくぐらせたり、偶像礼拝により、不信仰に不信仰を重ね、主を冒涜して止めることをしませんでした。だから、33節~38節で、エルサレムの滅亡と、バビロン捕囚という、裁きは避けられないことを宣言しています。その目的は、永遠の滅びではなく、バビロン捕囚という境遇の中で、ユダの民たちが再び、偶像礼拝の誘惑と罪に陥ることがなくなるようにとの主のご計画であることを明らかにされています。イスラエルの民たちが悔い改めて悟り、主に立ち返る時、主はイスラエルの民たちを祖国に必ず返すという約束を宣言されています(39節~44節)。つまり、1節~44節までを読むとき、イスラエルの民たちが真の悔い改めをしていない現状では、祈りが聞かれることがないが、主には主のご計画があり、70年のバビロン捕囚を通して、イスラエルの民たちが真の悔い改めに導かれる時、主は必ずイスラエルの民たちを祖国に返すというのです。
形ばかりではなく、ごまかしではなく、心から主に立ち返るなら、そのとき、主は必ず願いを聞いて下さるのです。主よ。わたしたちの内からすべての偶像を取り除いて下さい。主にのみ信頼するように導いて下さい。
清宣教師