22章は、エルサレムが流血と偶像礼拝の罪によって満ちており、その罪が具体的に列挙されています。1節―16節では、エルサレムの町のすべての階層に満ちあれている罪が糾弾されています。17節―22節では、エルサレムは「るつぼ」であり、住民は「かなかす」となったと指摘しています。「るつぼ」にいれられた青銅、すず、鉄、鉛などの様々な金属は、君主、預言者、祭司など、いろいろな種類の人をさしています。彼らは主のさばきによって、価値のない「かなかす」であることが明らかにされます。23節―31節で、預言者たち、祭司たち、首長たちの堕落した姿を指摘します。そして、有名な聖句が登場します。30節です。「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ・・・」と言われました。
現代のクリスチャンは、破れ口に立って、日本の国と世界のために執り成しの祈りをする使命が与えられています。「主の祈り」において、私たちは「御国が来ますように」と祈っています。これは現実の問題に直結している革命的な祈りなのです。私たちの祈りは、いのちを与える力を天から地へと解き放つ働きです。神の正義が、この世のシステムに侵入し、善を解き放つために、この地球の霊的大気に裂け目を作る働きです。
清宣教師