24章は、エゼキエルがエルサレムのさばきについて預言した最後の預言です。1節―14節は、さびが落ちない肉鍋のたとえです。鍋から肉を取り出す動作は、エルサレムの住民が、神の裁きにより、バビロンに連れ去られることを表しています。肉を取り出すことになった原因は、鍋にこびりついた青銅のさび(つまり、緑青)でした。これはエルサレムで流された罪なき人たちの血を象徴しています。エルサレムで流された無実の人たちの血は、裁きを求めて叫び続けているのです。なべを空にして火にかけ、真っ赤になるまで熱するのは、エルサレムの住民が連れ去られた後に、エルサレムの町全体が焼かれて廃墟にされることの象徴です。しかし、その骨折りは無駄であり、ひどい錆は落ちませんでした。だから、エルサレムは滅びにいたったのです。15節―27節は、預言者の妻の死をもって示した最後の警告です。当時の人たちは、肉親が亡くなった時、サンダルを脱ぎ、口ひげを覆い、大声で泣き、喪に服し、涙を流して、人々がもってきてくれる悲しみのパンを受けるのが当たり前のことでした。しかし、主は、エゼキエルに対して、これらのことをすべて禁止しました。まわりの人たちは、妻を失ったエゼキエルの異常な行動に驚いて、その理由を尋ねました。そのとき、エゼキエルは預言者として、主のことばを語りました。妻の死は、エルサレムの滅亡を意味するものでした。エゼキエルの愛する妻が亡くなったように、彼らの愛する息子や娘たちが殺されたという悲報を受けた時、彼らは自分たちの咎の重さに押しつぶされて、涙を流すことも、サンダルを脱ぐことも、ターバンも外すことをせずに、悲嘆にくれるというのです。彼はこの預言をしたあと、3年間、沈黙を保ちました。しかし、3年後、エルサレムの滅亡の知らせが届き、エゼキエルは再び、口を開いて今度はイスラエルの回復の預言をするようになりました(24章26節、27節)。この24章26節の出来事は、33章21節で実現しています。それで、25章から32章までは、エルサレムとは直接関係のない諸国民の将来についての預言が与えられています。つまり、エゼキエル書の1章~24章は、エルサレムの罪の指摘と滅亡の預言が語られており、25章~32章は、諸国民の将来についての預言、そして、33章以降は、将来のイスラエルの回復の預言が語られています。
私たちは、主の御心の中で日本に住んでいます。日本の国民が罪のゆえに滅びることがないように、全国各地の教会においてリバイバルが起こり、救われるように、執り成しの祈りを捧げましょう。
清宣教師