今日の34章は、真の牧者について記しています。
まず、1節―10節では、利己的なイスラエルの牧者(指導者)に対する弾劾のことばです。イスラエルの民が捕囚となった理由のひとつは、民の堕落でした。しかし、その背景には指導者たちの堕落がありました。「イスラエルの牧者たち」(2節)と記されていますが、これは王、行政官、裁判官などの政治的指導者をさしていますが、一方で、祭司、預言者、律法学者などの宗教的指導者を指しています。本来、彼らは主によって、神の民を牧するように召された者たちでしたが、そのことを忘れて、私利私欲に走り、民たち(羊)の世話をせず、ほったらかしにして、自分達はぜいたくな暮らしをしていました(2節―4節)。それで、羊たちは、飼う者のない群のように、散らされて、野の獣の餌食となっています。野の獣とは、バビロンのことを指しています。それで、主は指導者たちにさばきをくだすと、宣言されました(10節)。ここで、ある意味、不思議なことは、このような指導者、このような民ですが、主は預言者エゼキエルを通して、何度も「わたしの羊」と呼んでおり(6節―10節)、指導者に対しても、「わたしの牧者たち」(8節)と呼んでいます。主ご自身の目から見るなら、主の羊であり、主の牧者たちでした。しかし、彼らは思いのままに生きて、主の羊であり、主の牧者であるということを放棄していました。
11節―22節では、主ご自身が牧者となって羊たちの世話をし、羊たちを裁くと宣言されました。イスラエルの民をその散らされた所から連れ出して、お世話をする姿は、イエス様が語られた、失われた羊の例え話に登場する牧者のようです(ルカの福音書15章4節―6節参照)。ところで、一般市民をえさにして、私腹を肥やしていたのは指導者だけでなく、一般市民の中にもおりました。彼らは弱いものを押しのけ、自分達だけが良い草を食べて、残った分を足で踏みにじるようなことをしていました(18節-22節)。主は、彼らをも裁くと宣言されました。
23節―31節では、主はダビデを起こして、平和と祝福をもたらすと宣言されました。「ひとりの牧者」(23節)を起こすと言われ、また、「わたしのしもべダビデ」を起こすと宣言されました(23節)。その来たるべき、まことの牧者とは、イエス・キリストに他なりません。イエス様は、ご自分の使命について、こういわれました。「わたしは、失われた人を捜して救うために来た」(ルカの福音書19章10節参照)。イエス様は町から町へ、福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒されました。キリストの贖いのみわざによって、神と人との間に新しい平和の契約が結ばれ、祝福と平安が与えられます(25節、30節、31節)。
今は、恵みの時です。私たちも神の民、神の家族とされました。その原点から離れることなく、私たちは神の民であるということ、主がいつも共にいてくださるということ、いつも主の恵みの中に入れられていることを忘れることなく、きょうも、歩みましょう。私たちは主にあって守られ、主にあって導かれます。主は生きておられ、私たちと共におられます。主をほめたたえます。
清宣教師