40章から42章の幻の中で、新しいイスラエルの神殿を一通り案内した御使いが、エゼキエルをもう一度、外庭の東門に連れて行きました。そこは、エゼキエルが最初に神殿に入ったところであり、幻が次の段階に入る時にはいつも、連れ戻される場所でした(40章6節、43章1節、44章1節、47章1節参照)。エゼキエル書の最初の方、つまり、10章18節―20節、11章22節―24節では、主の栄光がエルサレムの神殿から東の方へと去っていかれる光景を描写しましたが、今回は、離れ去って行かれた時とは、ちょうど逆に、主の栄光が、東の方から、東門を通って、神殿の中に帰って来られたのです。大水のとどろきのような音が聞こえ、大地は主の栄光で輝きました。それはエゼキエルがケバル川のほとりでみた(10章)幻のとおりであり、エゼキエルは思わずひれ伏しました。つまり、かつて、主は偶像礼拝によって汚された神殿とエルサレムから離れ去られ、無用の長物となった神殿もエルサレムの都も捨てられ、焼かれました。しかし、今回、新しいイスラエルにおける神殿に主が帰って来られ、神殿は主の臨在に満ちたのです。「主の栄光は神殿に満ちていた」(43章5節)。次に、7節では、「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。」と語られた。「高き所の王たちの死体で、主の聖なる御名を汚さない」という意味は、第2列王記、21章18節、26節に記されているように、王たちの死体を王宮の庭に埋めたことを指している、と考えられます。ソロモンの神殿では王宮が神殿と同じ構内に建てられており、ただ塀だけによって隔てられていたので、王宮の墓地に埋められた死体が神殿を汚すことになったようである。しかし、2度とこのようなことは起こらないのである。13節以下は、新しい神殿の内庭に置かれるべき祭壇の寸法と聖別式の手順が記されている。注解者は、この祭壇は巨大なもので3段になっていると考えている。一番下の台座は16キュビト(8.4メートル)の正方形で厚みは2キュビト(1.05メートル)、中段は14キュビト(7.35メートル)の正方形で厚みは4キュビト(2.1メートル)であり、最上段は12キュビト(6.3メートル)の正方形で、厚みは4キュビト(2.1メートル)であると理解しています。祭壇の四隅には角あるいは突起があり、基部の周囲には半キュビト(26.2センチ)の深さの溝がある。この溝はおそらく動物たちの犠牲の血をうけるためと思われます。この祭壇は新約聖書におけるイエス・キリストの十字架を指し示すものですが、これが神殿全体の真ん中に置かれていることは、神のご計画の中心に十字架があることを指し示しています。18節以降、祭壇は血によってのみ贖われ、きよめられるという原則が示されています。祭壇が完全にきよめられてのち、祭壇に捧げられる犠牲が主の前に受け入れられることになります。
清宣教師