今日の個所は、「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。」ということばで始まります。エゼキエル書47章で、いのちの水の川の幻です。神殿の敷居から流れだし、流域にいのちを与える川です。これはリバイバルの聖会で良く引用される聖句です。私たちも聖霊の宮です。私たちの聖霊の宮から流れ出る御霊のいのちの流れも、最初は、気付かないほどの小さな流れですが、だんだん、大きな流れとなっていきます。そのような存在として、私たちクリスチャンは世に遣わされています。きょうも素晴らしい個所ですね。
こんなことを想像しました。西多賀教会の玄関を入ろうとしたら、足元に水が流れています。南側に回ったら駐車場に面するところ教会堂の敷居のところから水が流れています。水の流れの後を追ってみたら、286沿いに東の方へ流れています。イエローハットのあるあたりまで歩いていくと、水の深さは足首ほどの深さになりました。さらに、東へビックリドンキーの前へ来たら、水の深さが膝の深さでした。さらに、東へビッグボーイのところまでくると、水の深さは腰に達しました。ゆっくり、歩いていましたが、あのダイシンあたりまで来るともう立っていることが出来ず、泳ぐほかありませんでした。そこで、教会に帰るとき見たら、流れの両岸には非常に多くの木があり、景色が一変していました。木々には、豊かな果樹が実っています。その実は美味しく、お腹がみたされます。そして、その葉は痛みを和らげる薬となりました。天の御国の景色を見ているようで、また、地上の緑の牧場を見ているようでした。この川の流れは、やがて、海に流れ込みます。この水が流れているところはみな、いのちに輝くのです。でも、沼や沢で、自分の水で満足して、この川の流れを受け付けないところはみな、もとの通り淀んでいました。・・・エゼキエルは、御使いに連れられて、神殿の東の門のところに立ちました。そうしたら、祭壇の南側から水が流れていたのです。あとは、本文にあるとおりです。1千キュビト(約450m)ずつ、だんだん、深くなっています。実感がわくように、西多賀教会からの実際の距離を考慮して、想像して書いたのが私の最初の文章です。水は、最終的に塩の海、つまり、死海に注ぎます。普通の海水の塩分濃度は0.9%ですが、死海の塩分濃度は25%~30%あります。それで、人間の身体は浮いてしまいます。死海の写真を見ると、海に浮かんで新聞を読んでいる姿が映っています。塩分濃度が高すぎるので、海の魚もすめないようです。しかし、いのちの水の川の流れが注ぐとき、生き返るのです。47章の13節以降は、イスラエルの12部族全体に対する相続地の境界線を示しています。48章で、それを12部族に分けて説明しています。
なお、新約聖書における解き明かしでは、イエス様はご自分のことを、「神殿」あるいは「神の宮」であると言われました。そして、ヨハネの福音書4章14節で、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われました。さらに、7章38節、39節で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」。神の宮であるイエス様から聖霊様の生ける流れが出るのです。そして、さらに、イエス様を信じたクリスチャンに関して、コリント人への手紙、第1、6章19節は、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」と述べています。つまり、歩く神の宮となったクリスチャンからも、生ける水、聖霊様の流れが出るのです。それは、最初は、気づかないほどです。しかし、遠くに行くほどに足首まで、・・・と深くなります。創造主なる神は、最初から無限の叡智を込めて、ご自分の似姿に人を造られ、素晴らしいご計画をもっておられましたが、キリストにおいて回復してくださいました。私たちは、信じて、聖霊様によって生きる時、私たちの周りに救いの御業を見るのです。
清宣教師