さて、オバデヤ書ですが、旧約聖書で最も小さな書です。1章しかありませんので章立てもありません。1節にオバデヤの名前が出てきますので、オバデヤ書と呼んでいます。旧約聖書の中に、オバデヤという名前は、このオバデヤ書のオバデヤ以外にも11名でてきます。しかし、いずれも、オバデヤ書のオバデヤとは異なることが知られています。それで、オバデヤの人物や背景については、このオバデヤ書の中でしか手がかりが得られません。分ることは、オバデヤが南ユダの人であったことと、預言者であったことの二つです。時代背景も大きく分けて、二つの推測がありますが決定的な証拠は、いまのところ、ありません。ヨラム王が治めていた時(第2歴代誌、21章16-17節参照)、あるいは、ネブカデネザル王がエルサレムを攻略した時のことと推測されています。1節:イスラエル王国が外国の軍隊によって侵略された時、エドムはこれに協力しました。これまでも、エドムはイスラエルに対して、ことごとく敵対してきました。それで、こんどは、主が、周辺諸国に対してエドムに立ち向かうように使者を遣わされます。2節以降14節までは神の法廷での様子です。2節が、最初に述べられる「主文」です。「見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする」でした。3節以降、長い[判決理由]が述べられています。簡潔にまとめると、エドムの罪は高ぶりです。自分たちは高い所(首都セラは、標高1,000メートルのところにあった)にあり、首都に至るまでの道のりは両脇に絶壁がそびえていて、その真ん中を通る狭い道しかありません。ですから、敵を防ぐのが容易であり、難攻不落の都であると、みな自慢しておりました。しかし、主の裁きをうけて滅びるのです。15節―16節は、エドムだけでなく、イスラエルの周辺諸国に対する裁きの予告です。17節―21節は、イスラエルの回復の預言です。
エドムは、周りの国々を見下していました。そして、ついに、主なる神をも見下すような高慢なものとなりました。ですから、必ず、主の裁きをうけるのです。私たちも、周りの人たちを見下すなら、いつのまにか、高慢になり、神をも恐れないものとなってしまいます。それは周りの人たちと自分を比較しているからです。もっと正確に言うと、私たち人間は自分の長所と周りの人たちの短所を比べる性質があります。そうなれば、自分がすぐれていることになります。至高なる神の前に出るなら、神が私たちを見下ろされていることに気付きます。そうすれば、高慢になる余地がありません。あるいは、自分の短所を周りの人たちの長所と比べれば、決して高慢になることはありません。「高ぶりは破滅に先立つ。謙遜は栄誉に先立つ」です。高ぶりを悔い改めて、主の前に謙遜を回復していただきましょう。
清宣教師