8章全体は、イスラエルが神との契約を破ったことを、当時の政治と宗教の実例をあげて非難しています。1節の角笛は、敵が攻めてくる時の見張りの笛のことです。アッシリアは鷲のように素早く攻めてきます(1節)。それは、イスラエルが主との契約を破り、教えに背いたからです(1節)。イスラエルが捧げる祈りは、表面的には主への礼拝にみせかけているが、その本質は、バアル化した礼拝でした(2節)。イスラエルは勝手に王を立てました。そして、偶像を造りました(4節)。サマリヤには、金の仔牛が祭られて、これが主なる神であるとして礼拝がなされていました(5節)。このようなごまかしに満ちた礼拝が、主に受け入れられるはずがありません。主は裁きをなされます(6節)。風は空しさ、偶像礼拝を指し、つむじ風は収穫を台無しにするもので、偶像礼拝者の破滅を意味しています。穂がでることはなく、麦粉がつくれない、ということは、偶像にはなんのいのちもないことを示しています。他国人がこれを食い尽くすとは、イスラエルがアッシリアに侵略されることを意味しています(7節)。8節は哀歌のように、アッシリアの侵略を受けて荒廃するイスラエルのことを述べています(8節)。イスラエルは自分から進んでアッシリアに貢物を贈りました(9節)。しかし、アッシリアに貢物をしても、結局はアッシリアの圧政によって重い貢物を課せられてしまうのです(10節)。エフライム(北イスラエル)は、罪の贖いのために、地方に多くの祭壇を築きました。しかし、それは罪の贖いをするどころか、バアル礼拝の温床となり、イスラエルが罪に罪を増し加えるものとなったにすぎなかったのです(11節)。主はイスラエルに律法を与えましたが、それは無駄でした(12節)。ホセアの時代、イスラエルの人々は盛んに「いけにえ」を捧げましたが、しかし、主はこのようなバアル化した捧げ物は喜ぶことがないことを明らかにしています(13節)。イスラエルは、主によりたのむことをしないで、結局、目に見える神殿や城壁に頼りました。聖なる主に拠り頼むのではなく、表面的な祭儀や軍事力により頼んだのです(14節)。だから、主はその町々に火を放ち、宮殿を焼き尽くすという裁きをなされるのです(14節)。
私たちも、表面的な宗教儀式で繕うことなく、私たちの心において、生活の中心において、主を敬い、主を愛することが求められています。とくに、隠れた所での密室の祈りが大切です。主は隠れた所での祈り、また礼拝を見ておられます。
清宣教師