父親が反抗する息子に対して、愛と厳しさの間で悩みつつ、真実と愛を貫き通すその姿に、イスラエルの民を愛する神の姿が浮き彫りにされています。1節―4節:イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。「くつこ」とは牛などに脱穀の仕事をさせるとき、穀粒を食べられないように、家畜の口を覆う籠のようなもののことです。しかし、優しい飼い主は、「くつこ」を外して、いつでも、家畜が食べられるようにしました。そのように、主はイスラエルに対して優しく接してきたと主張します。それでも、イスラエルの民は、主のもとから遠ざかり、偶像礼拝を深めていくのでした。それで、どうしても、イスラエルを罰せざるを得ない状況に追い込まれていきます。しかし、主は、その愛のゆえに、イスラエルを裁くことに、非常に悩むのです。8節―9節:エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにするこができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。「アデマ」とか「ツェボイム」とは、かつて、ゴモラとソドムが、はなはだしい罪のゆえに火で焼かれた時に、一緒に裁きを受けた町々です。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。主は、この背信のイスラエルを、なんとかして、立ち返らせたいのです。10節―11節:主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。彼らは鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリヤの地から、震えながらやって来る。わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう。―主の御告げ―。「獅子ののように吠える」とは、主は義なる神でおられますから、最後には主の裁きの時がきます。その時、震えながらではありますが、イスラエルの民は全世界から主のもとに帰ってきます。12節は、ヘブル語の聖書では、12章1節となっており、12章に含まれる内容です。
神様の選びは最初から変わることがなく、神は一方的な愛の契約により、神の民の度重なる背信にもかかわらず、最後まで神の民を愛し通されます。主はあなたを最後の最後まで愛し通されます。
清宣教師