ヘブル語聖書では、昨日の11章12節は今日の12章1節に含まれています。つまり、イスラエルの偽りと欺きが預言者ホセアを城塞のように取り囲んでいる描写から始まっています(11章12節)。そして12章にはいり、エラの子、ホセア王の外交政策についての批判が記されています。「東風」とはアッシリアを指しています。「風を食べて生き」という表現はむしろ、「風と仲良くし」と訳される表現です。また、エジプトへ油を送るとは、エラの子ホセア王が、アッシリア王のティグラテ・ピレセルの死後、エジプトの援助を得ようとしたことを指しています。つまり、アッシリアとエジプトの両国の間を渡り歩く、イスラエルの危険な外交政策を非難しています(1節)。2節以降は、かつてのイスラエルの歴史を取り上げて、イスラエル(旧名、ヤコブ)の生い立ちから、このホセアの時代まで、主がどんなにイスラエルを愛し、話しかけ、守ってきたかを思い起こさせています。あのヤコブが御使いと格闘した時のこと、強情なヤコブではあったが、泣いて願い求めたこと、その時のようにいま強情なイスラエルではあるけれど、泣いて主に立ち返るなら、ヤコブがべテルで神に出会い、神がヤコブに語りかけて下さったように、主はイスラエルに語りかけて下さるのです。神は、預言者ホセアを通して、「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公儀とを守り、絶えず、あなたの神を待ち望め」と語られるのです(6節)。7節の「商人」とは原語では「カナン」となっています。つまり、もともとイスラエルには商人はいなかったのですが、ホセアの時代のイスラエルはいわば、ずるがしこい商人となっていたのです。自分は金持ちであり、その富は不正で得たものではない、と主張するのでした(8節)。この高慢なイスラエルに対して、主なる神はご自分がイスラエルを富ませたこと、そして、イスラエルの高慢のゆえに、イスラエルを再び、荒野での天幕生活の貧しさのなかに戻すことを宣言されたのです(9節)。次に、主は再び、ギルアデとギルガルの偶像礼拝にふれ、ギルアデはアッシリアのティグラテ・ピレセルに蹂躙され、その聖所は瓦礫の山となる、と宣言されました(11節)。次に、かつてヤコブがエサウの怒りを避けて、母方の実家があるアラムに逃げたとき、ヤコブは妻をめとるために、無報酬で羊の番をし、主人のラバンに仕えました。その時のように、今度は、イスラエルは捕囚の民となり、アッシリアの偶像の神に仕えることになると宣言されたのです(12節)。一方、主なる神は、ヤコブの子孫が歩んでいる間違った道から救い出すために、ひとりの預言者(モーセ)を遣わされたのです(13節)。しかし、エフライム(北イスラエル)は、主に立ち返ることをせずに、むしろ、異教の偶像の神々にならって、主の前に最も忌み嫌われる幼児のいけにえを捧げるようなことをして、主の怒りを引き起こしたので、主の裁きは決定的なものとなったのです(14節)。
今の私たちも、クリスチャンとしての人生で成功し、繁栄する時、自分の力でそれを成し遂げたと錯覚してしまう危険性があります。しかし、それはすべて主の恵みによるものです。主から離れて、金力や、財力や、体力や、才能に頼るなら、とても危険です。主により頼むことが、真の成功と繁栄の道なのです。
清宣教師