さて、ホセア書も、最後の14章です。これまで、1章から13章まで、北イスラエルの背教が、預言者によって明らかにされてきました。北イスラエルは、主の油注ぎを受けた王ではなくヤロブアム王を任命しました。ヤロブアム王は、自己保身のため、北イスラエルの北部と南部に、自分勝手に、ふたつの聖所を建てました。そこに金の子牛の像をおさめ、これがあなたがたをエジプトから救い出された主なる神であるとして北イスラエルの国民に礼拝を強要しました。また、ヤロブアム王は自分勝手に祭司たちを任命し、自分勝手に例祭を定めました。主を礼拝する宗教儀式として定着させました。それはみな、似て非なるものでした。それにもかかわらず、北イスラエルの人たちはみな、「私たちは主の民である。主を礼拝する民である」という誇りをもって生きていました。真実は主が忌み嫌う偶像礼拝であるにもかかわらず、自分の真実の姿に気が付くことなく生きていました。そこで、主は預言者を遣わして、まことの主に立ち返るように語りましたが、最後まで反抗して聞きませんでした。そして、遂にアッシリア帝国によって滅ぼされ、北イスラエルの民は捕囚となり、再び故郷に戻ることはありませんでした。その裁きの後、北イスラエルは、主のもとに帰るのです。その希望のメッセージが14章です。北イスラエルは、罪を告白し、主のもとに帰ります。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」(2,3節)。もう、私たちは決して目に見える偶像を慕い求めません。主以外のお方に頼りません。私は孤児のように、主に頼ります。主は孤児のような私を愛してくださいます。その時、主は語られます。(4節―8節)「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。・・・・エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。・・・」。
私たちは神の作品です(エペソ2章10節)。それにもかかわらず、創造主なる神に背を向けて自分勝手な生き方をしていました。しかし、もともと、神の作品なので、私たちが180度転換して創造主のもとに立ち返る(悔い改めの原意)なら、私たちは、神の作品として回復されるのです。それは主の恵みです。私たちが自分の力で神の子となろうとしても、それは不可能です。真に、創造主のもとへ立ち返るときに、造り主である神は、私たちを癒し、神の子としての身分を回復してくださいます。主は憐みに富んだお方です。主が、語って下さいます。「わたしはあなたの背信をいやし、喜んであなたを愛する。わたしはあなたには露のようになる。あなたはゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。・・・もう、偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。」(4節~8節)。アーメン!
清宣教師