ホセア書6章1節―3節については、注解者により、解釈が異なります。ある注解者は、これを祭司たちが唱えた祭儀的な悔い改めの歌とみなしています。その場合は、「主に立ち返ろう」とか「主を知ることを切に追い求めよう」は、確かに主が求めておられたことであるが、それに対して、ただ、ことばだけ、うわべだけの応答であり、4節―6節の主のお答えは、手厳しく、祭司たちの応答の歌には誠実が見られない、というもので、真実の悔い改めからは程遠いものであったと解釈します。6章7節―7章2節までは、イスラエルが、それぞれの地で犯した罪を列挙しています。アダムは、人名ではなく地名であろうと言われています。つまり、イスラエルの民が、アダムで、ギルアデで、シェケムで犯した罪を指摘しています。主は、すべてを総括して、7章2節で、「今、彼らのわざは彼らを取り巻いて、わたしの前にある」と言われました。すべての悪は、主の前で行われていることであり、主に覚えられているものです。そして、その報いを受けなければならないのです。
一方、今日、私たちが聖書を読むときに、6章1節―3節のことばは、私たちに大きな慰めを与えることばでもあります。この悔い改めの歌が、私たちの口から出る時、主からの応答を期待することが出来ると思います。現に、今朝も、「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んで下さるからだ。」(1節)というみことばが、主からの確かな約束のことばとして、私に与えられたように思いました。主は引き裂かれたものをいやし、包み、回復して下さいます。それは主に立ち返る時に成就します。「主はふつかの後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせてくださる。私たちは、御前に生きるのだ。」(2節)。過去のことは、すべてイエス様がすでに十字架の上で贖って下さいました。過去のこと、罪、失敗などなど、古い人生に関することはすべてイエス様がご自分の身に受けて、永遠に墓に葬って下さいました。私たちは、未来に生きるために、復活のいのちを与えられています。古い人生に対してお別れをして、御前にあって御国の住民としての新しい人生を歩むのです。この地上にありながら、御前に生きるのが、私たちクリスチャンの生き方です。「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちの所に来、後の雨のように、地を潤される。」(3節)。忙しさの中にあって、必要なことは多くはなく、ただひとつです。大事なことは、主を知ることです。主を知ることが、私たちの信仰の成長の原動力です。また、底力を与えます。主を知ることによって、アップグレードします。主を知ることを切に追い求めるものです。パウロは、「兄弟たちよ、私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ人への手紙、3章13節、14節)。主を知ること、ここに、クリスチャン生活の豊かさ、信仰の土台、まったき平安があります。
清宣教師