マタイの福音書の5章~7章は、戦後10年~20年ころ、「山上の垂訓(すいくん)」と呼ばれて、一般の人にも親しまれていました。最近はあまり話題になりませんが、このイエス様の説教は、豊かな内容で、広く、深いですので、皆様に自由に味わっていただければと思います。ここでは私なりに感じたことを記します。天の御国に入る人たちの特徴が描かれていますが、特殊な能力をもった人ではなく、その人の品性のようなものが描かれています。これらの品性を全部、合計してみると、御子イエス様の品性になるように思いました。天の御国は、誰のために備えられているのか、改めて、教えられます。そして、私たちに求めておられることは、要約すれば、「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(16節)という一点に絞られると思います。イエス様の生涯はまさに、イエス様の良い行いを見て、人々が天の父をあがめるようにというところに焦点があてられていました。地の塩、世の光としての勧めも、そこにありました。さらに、旧約時代の律法をとりあげて(21節~47節)、具体的に、ひとつひとつ、その表面的な遵守と、その奥にある父なる神のみこころを実行することの違いを解き明かされました。その究極の心は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という願いにあります。イエス様は、「それでこそ、天におられるあなたがたの父のこどもとなれるのです」(45節)と言われました。イエス様は、私たちひとりひとりに、天におられる御父のこころをもつ、こどもたちとなることを求めておられます。結論は「だから、あなたがたは、天の父が完全であるように、完全でありなさい」(48節)と言われるのです。ところで、完全という意味ですが、父が私たちに求めておられるのは、子としての完全です。子は、何でも出来るわけではありません。子は何ができるか、できないかで判断されるのではありません。父のこころを理解して生きるなら、それは子として完全であるということではないでしょうか。
神の御子が、人間となられ、私たちの間に住まわれ、天の御父を表してくださり、天の御父のみこころを示してくださいました。それは、私たちが天の御父のこどもとして完全なものとなり、私たちを天国に住まうにふさわしい者として備えるためでした。これらのことは、現代の社会が私たちに求めていることとは異なります。学校教育が求めているもの、会社が求めているものとも異なります。主イエスは、私たちが真に神のこどもたちにふさわしいものとなることを願っておられます。私たちは、イエス様の願いに耳を傾け、イエス様が求めておられる道を選択する決断が必要です。これが、御国の一員とされたにもかかわらず、この世の中に遣わされた私たちクリスチャンの使命です。「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」。
清宣教師