1節~3節では、「もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら・・」と言われ、1章で、譴責された祭司たちに対して、もし悔い改めなければ、今度は裁きを下すという警告がなされています。4節~9節では、レビとの契約は「いのちと平和」(5節)であったこと、それを主が賜物として与えられたことを明らかにしています。さらに、この契約に留まる者たちの理想的な姿が5節の後半から7節まで記されております。「しかし」(8節の冒頭)という言葉で始まり、現実には、彼らは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせてしまったのです(8,9節)。10節―12節では、「私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか」と宣言しています。それなのに、民たちは木で作った偶像を父と呼んだり、他国の神を拝み、その家庭の崩壊をもたらしていました。13節―16節では、創造主は男と女を結婚の祝福を通して、ひとつにしました。しかし、彼らはこれを無視して離婚を当然のことのように振舞いました。しかし、主は『離婚を憎む』と宣言されました。最後の17節で、主は神の民が堕落腐敗して、神の教えに背を向けて、勝手気ままな人生を送っていることを指摘しました。彼らは自分たちの行動を自己正当化して「悪を行う者もみな、主の心にかなっている」と主張し、「さばきの神はどこにいるのか」と嘲るまでに堕落しているのです。
私たちクリスチャンも目を覚ましていないと、世の支配者であるサタンの巧妙な策略に惑わされて、いつのまにか少しずつ、世と妥協していき、そのことに気付かないで、いつのまにか、主に対する不平や不満が生れてくることがあります。これから多くの教会において、人権尊重の名のもとに、LGBTQの受け入れが進むものと推測されます。その結果、創造主の祝福の基である、ひとりの男性(夫)とひとりの女性(妻)という結婚の土台が崩壊してしまい、人類は自滅しかねません。いまが、世の終わりの時代です。ノアの大洪水の前の時代に良く似ているのです。多くの教会が、世の価値観、世の生き方に染まってしまうのです。というわけで、私たちは主日の礼拝を守り、信仰の友と語り合い、1日1章を読みながら、つねに、生ける神に心を向けて歩めるようにする必要があります。
きょうは、私たちひとりひとりのリバイバルの日です。主をほめたたえます。主に感謝します。主に期待します。主がなさることはすべて良きことです。主のなさることに間違いはありません。「いのちと平和の契約」を感謝します。
清宣教師