イスラエルは、神の愛を疑い(1章2節)、神の名をさげすみ(1章6節)、神の正義を問題にして、神の存在そのものを否定しようとしました。2章は、嘲る者たちが、「裁きの神はどこにいるのか」といって主なる神を冒涜している姿で閉じられています(17節)。これほど、神の民たちも、その指導者の心も主から離れていました。このような背信のイスラエルに対して、主は「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える」(3章1節)と宣言されたのです。「わたしの使者」とは、4章5節では「預言者エリヤ」と言われています。そして、その預言者エリヤとは、実際には、「バプテスマのヨハネ」であることが、新約聖書で解き明かされています。一方で、この預言は、やがて来たるべきメシヤ、王の王であるイエスの到来を示すものでもありました。メシヤは、最初は救い主としてこの地に来られます。そこで、万軍の主は民たちに語られます。主の日に備えて、「わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう」(3章7節)と言われるのです。ところが、民たちは、またまた、口答えをします。「どのようにして、私たちは帰ろうか」(7節後半)。そこで主は具体的に「十分の一と奉納物」の事を取り上げて提示されました。民たちは、神を礼拝すると言いながら、実際には、神は存在していないかのように、「十分の一と奉納物」の捧げ物を無視したり、ないがしろにしていました。それは、本質的には神のものを盗む行為である、と明確に指摘しました。一方で、主は「十分の一と奉納物」を捧げるなら、生きておられる主が天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を経験するようになることを約束されました(10節)。しかし、神の民とは名ばかりで、彼らは「神に仕えることはむなしいことだ。神の戒めを守ってもなんの益になろう」と心の中で思っていたのです。それが生活にもあらわれていたのです(14節、15節)。しかし、そのような民たちの中に、主なる神は、いわゆる残りの者たち(真の信仰者の群れ)を残しておかれました。彼らこそ、神の宝である「主を恐れ、御名を尊ぶ者たち」です(16節)。
私たちはクリスチャン、つまり、「キリストに属する者」と呼ばれています。その名にふさわしい人生を送るなら「主の御名を尊ぶ者たち」、「わたしの宝」と主によって呼ばれる者となります。もう一度、へりくだって自分自身の信仰生活を点検します。偽善的な信仰生活を悔い改めます。私たち一人一人を「御名を尊ぶ者」としてふさわしい者とするために、十字架の苦しみを耐え抜いて下さいました主の御名をほめたたえます。信仰のリバイバルを与えて下さい。
清宣教師