6章の前半(1節~18節)は、クリスチャンの信仰生活についての教え、後半(19節~34節)は、クリスチャンの日常生活とくに経済的な心構えについて記されています。1節の「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(1節)ということばが、前半の土台をなす教えです。つまり、施しをするにしても(2節~4節)、祈るにしても(5節~15節)、断食するにしても(16節~18節)、人に見せるためではなく、純粋に主に捧げる行為として実行するように勧めています。そうでないと、いかにも信仰的な行為に見えても、それは自分を良く見せるための偽善でしかなくなるのです。当時の宗教指導者と言われるパリサイ人たちの偽善的な行為を鋭く指摘しています。私たちは、ただ神の恵みによって義とされたのですから(エペソ人への手紙2章8節)、行いによって自分を義としようとする生き方は的外れの信仰生活であり、クリスチャンの信仰の生き方ではありません。イエス様は、「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いで下さいます」と3度も繰り返されています(4節、6節、18節)。そして祈りにおいても、自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられる天の父に祈るように勧め、「主の祈り」を教えて下さいました。その内容は、まず、神について祈ること(9節~10節)、そして自分たちの必要について祈る(11節~13節)というスタイルになっています。イエス様ご自身も、ひとりで人里離れたところに出て行き、日々、お祈りしておられました。つまり、有言実行されて、弟子たちに模範を示されていました。あのインドで最下層の貧民のために人生を捧げた、マザー・テレサも、日々の初めに、まず隠れたところで天の父なる神様の前に出る時間を設けて、充分に天の父なる神様との交わりをもち、1日の生活を始めたことが知られています。
さて、後半では、「自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。・・・自分の宝は、天に貯えなさい」(19節、20節)と後半の教えの土台となる考え方を示されました。宝のあるところに、自分のこころもあるからです。多くのクリスチャンは、地上に宝を貯えてしまい、天に行くことが喜びではなくなってしまう傾向があります。イエス様の勧めに従い、初めから天に宝を貯えることにより、この地上への執着が取り去られて、天の御国に入る喜びが増し加えられるのです。何故、地上の富に執着するのかというと、その原因は、ほとんどの場合、心配することにあります。未来に対して、あれこれ、心が分れて混乱してしまう傾向があります。イエス様は、そのような人間の性質をよく御存じですから、「心配するのはやめなさい」と言われるのです。「心配」ということばが、7回も用いられています。天の父なる神様が、どのようなおかたであるかを知っているなら、つまり、創造主であり、すべての生き物たちの必要を満たし、養って下さるお方であることを知っているなら、私たちの必要をすべて御存じなので、それを満たして下さることを信じることが出来るはずです。先ほどの密室での祈り、つまり、隠れた所で、天の父なる神を知る機会を、日々、持つことにより、天の父を信頼し、未来のことは天の父に委ねて、今日の労苦に取り組むことが出来るのです。
今日も、山上の説教を通して、「神の国と神の義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」というクリスチャンの生き方の大切な秘訣を教えていただきました。あとは、実践あるのみですね。
清宣教師