イエス様と弟子たちは、安息日に麦畑を通られました。その時、弟子たちがお腹が空いていたので穂を摘んで食べ始めました。それを見ていたパリサイ人がまたもや、弟子たちを批判しました。安息日には、どんな労働もしてはならないのに、籾摺りの労働をして安息日を破ったというのです。その非難に対して、イエス様は過去のダビデの例を持ち出して、ダビデと供のものたちは、祭司の他に食べてはならない供えのパンを食べたではありませんか。また、宮にいる祭司たちは、安息日に労働しても、それは安息日を破ったことにはならないということを知っているでしょう。それは律法に書いてありますが、あなた方は読んだことがないのですか、と答えられました。さらに「あわれみは好むが、いけにえは好まない」という意味を知っていたら、弟子たちを罪に定めることはなかったでしょう。と言いました。父なる神様のみこころを知らなければ、律法の表面的な文言にとらわれてしまい、人を裁く、律法主義の偽善に陥ってしまうのです。安息日は、人を束縛し苦しめるために設けられたのではありません。むしろ、その日に人が安息して、神からの豊かな祝福を受けるために設けられたのです。
続いて、会堂に入られると、そこに片手の萎えた人がいました。パリサイ人たちは、「安息日に人をいやすのは正しいことでしょうか」と、性懲りもなく、頑なに、イエス様に問いかけました。すると、イエス様は、あなたの飼っている一匹の羊が深い穴に落ちたら、どうしますか? 安息日だからと言って、助けるのをやめますか? 必ず、深い穴からなんとかして、助けてあげるではありませんか。まして人間は羊より尊い存在です。安息日であろうとなかろうと、癒してあげるのは正しいことです。むしろ、安息日に良いことをするのは父なる神のみこころにかなったことなのです。安息日は、神が人間を祝福するために定められた特別の日なのですから。そこで、片手の萎えた人の手を癒してあげました。すると、パリサイ人はどうしましたか?イエス様を殺そうと企み始めたのです。なんと、パリサイ人たちは自分たちこそ、安息日を守る、神の忠実なしもべであると自認していたのです。安息日を破る者は、神に代わって成敗してやるというということです。ここに、パリサイ人たちの偽善というものが、明らかにされています。イエス様は、そこを立ち去られました。
そのような出来事があったのちの出来事ですが、悪霊に憑かれて目も見えず、口もきけない人がイエス様のもとに連れて来られました。そこで、イエス様はその人を癒されました。しかし、パリサイ人は、イエス様が、悪霊のかしらだから、悪霊を追い出せるのだと主張しました。それに対して、どんな国であっても、仲間割れをしたら、その国はたちゆかなくなります。サタンがサタンを追い出すなどということはあり得ないのです。その家の主人を縛ってしまわないで、どうして、その家の財産を奪うことができるでしょうか。わたしはその家の主人であるサタンを縛って、サタンの奴隷となっていた、悪霊に憑かれた人を解放したのです。それは聖霊の働きによるのです。もし、聖霊を悪魔よばわりするなら、その罪は赦されません。人はどんな罪も赦されますが、聖霊を冒涜する罪は赦されません、と警告されました。イエス様はもうひとつ、警告されました。それは、せっかく、悪霊を追い出してもらったにもかかわらず、そのままにしておくと、追い出された悪霊が、悪霊の仲間をつれて、古巣に戻ってくるので、もとよりも悪い状態となってしまうというのです。悪霊を追い出していただいたら、空っぽにするのではなく、聖霊様に感謝して、聖霊様に住んでいただくことです。そうすれば、悪霊は二度と、心を占領できなくなります。以上です。清宣教師