①小さい者(1節―20節):前半は弟子たちの質問から始まります。弟子たちがイエス様のところに来て質問しました。「天の御国では誰が一番偉いのでしょうか」。それに対するイエス様のお答えは、「小さい者」でした。弟子たちは、自分たちの中で誰が偉いか、議論していました。それは自分の方が偉いという議論でした。それに対して、イエス様は、自分を偉いとする者は決して天の御国に入ることが出来ない、と言われたのです。つまり、弟子たちは自分たちは当然、天の御国に入る資格があると自負していました。ところが、イエス様は、そのようなものは「決して天の御国に入れません」(3節)と断言したのです。そして、いつも大人からは邪魔にされて話の中にもいれてもらえないような子どもたちこそ、御国に入る資格があると言われました。子どもたちのように自分を低くするものが天の御国では一番偉いのです。他の人たちより偉くなりたい、という思いは、利己的な思いであり、自分中心の排他的な思いから出てくるものです。神様は「小さな者たち」を愛しておられます。とても、大事にされます。小さな者たちは、自分を低くする者たちです。この世では、価値のないもの、として見下されています。しかし、神様は決して見下げません。だから、小さな者たちを躓かせることは大きな罪である(6節)、とイエス様が警告されました。そして、「この小さい者たちを一人でも見下げたりしないように気をつけなさい」(10節)と警告されました。100匹の羊の中で迷いだした1匹の羊を大切にするように、父なる神は小さなものを、とても大切に思われているのです。ですから、どんな小さなものたちでも、ふたりまたは3人が集まるところに、イエス様も一緒におられます。そして、心を合わせて祈るとき、父なる神様がその祈りを聞いてくださいます(19節、20節)。
②制限なしの赦し(21節-35節):後半は、ペテロの質問で始まっています。「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と質問しました。それに対して、イエス様は「七度を七十倍するまで」と答えられました。そして、ひとつのたとえをお話しされました。イエス様が例えられたのは、1万タラント(現在の約6兆円)を赦してもらった人が100デナリ(現在の約100万円)を貸していた人を赦さなかった例え話です。100万円を赦さなかったために、6兆円の赦しを無効にしてしまいました。つまり、自分に対する100万円の罪を赦せないで、無理矢理、相手に償わせるなら、神様に対する6兆円の罪の償いを自分でしなければならなくなるというのです。このしもべは、主人から無条件で赦されたのだから、自分も他の人に対して無条件で「赦す」ことが求められているという真理です。それは相手の人だけでなく、赦す本人にとっても、神様の祝福が注がれる解決です。このお話しの結論は、問題の究極的な解決は赦しにあるということです。自分自身、そして相手の人も自由に解放するのが「赦し」です。
今日、天の父なる神様が、私たちに求められていることは仲間より偉くなることではなく、私たちが小さな者であることを自覚すること、そして、父なる神様の限りない愛によって、一方的に赦された私たちであることを自覚することです。
清宣教師