神殿におけるユダヤ教の指導者たちとの論戦です。論戦も最終段階にはいり、ひとつのミスも許されない緊迫した状況下での論戦でした。パリサイ人たち、律法学者たち、祭司やサドカイ人たち、さらにはヘロデ党のものたちもひとつになっての攻撃でした。つまり、宗教指導者たちや政治的な指導者たちがよってたかっての総攻撃でした。そこでも、イエス様はひとりで立ち向かい、しかも、論戦を避けるのではなく、明快な答えをもって、一切の反論ができないように、天からの知恵をもって対処されました。イエス様は父なる神に信頼して、対処されたのです。
まず、1節―14節は、王子の披露宴のたとえです。聞き手は祭司長やパリサイ人たちでした。王は、神をさしています。しもべは預言者たちです。そして、王の招きを断ったのは、ユダヤ人たちです。そのあと、大通りで出会った人たちとは、異邦人たちであると解釈されます。つまり、神は、ユダヤ人たちを選民として優先的に救いに与るように招いたのですが、彼らは預言者たちを迫害し、聞く耳をもちませんでした。ですから、神は、異邦人たちを救いに招くようになるのです。結論は「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(22章14節)です。
15節―22節は、納税をめぐっての論戦です。パリサイ人たちは、日ごろ、犬猿のなかであるヘロデ党のものたちと一緒に、わなを仕掛けて論戦を挑みました。もし、イエス様が、「カイザルに納税する必要はない」、と答えたなら、彼らはただちに、ローマの総督ピラトに、このイエスという人物は、カイザルに納税する必要はないと、民衆を扇動する者です、と訴える手はずでした。反対に、「カイザルに納税せよ」と勧めたなら、民衆たちは失望して、イエスのもとを去って行くに違いないのです。どちらにしても、イエスを陥れることができる、絶対に逃れることができない罠でした。しかし、イエス様は、カイザルに納税するデナリ銀貨を見せなさい、と言われました。そして、これは誰の肖像ですか?と質問されました。彼らはカイザルの肖像です、と答えました。すると、イエス様は、カイザルのものはカイザルに返しなさい、そして、神のものは神にかえしなさい、と答えられました。これには、罠をしかけた当人たちも、このイエス様の答えに驚嘆して帰って行ったのです(22節)。
23節―33節は、復活についての論戦です。サドカイ人たちは、復活はありえないという神学的な論争をしかけました。しかし、イエス様は、いかにももっともらしい理屈をつけて、自説を説明するサドカイ人たちに対して、「あなたがたは思い違いをしている。あなたがたは聖書も神の力も知らないからです」と厳しく糾弾し、復活があることを聖書のみことばから論証されました。これらの論争を聞いていた群衆は、イエス様の明快な説明に驚嘆しました(32節、33節)。
34節―46節は、律法についての質問でした。今度は律法の専門家がイエス様に、律法の中で大切な戒めはどれですか?と質問しました。それに対して、イエス様は明快に、神を愛し、隣人を愛する二つのことである、と要約されました(40節)。それから、逆に、イエス様は、詩篇のみことばを引用して、ダビデとメシヤの関係について、彼らに尋ねました。しかし、パリサイ人たちは何も返答することができませんでした。そして、論争は、終わりました(46節)。
当時のユダヤ人の社会では、最高のエリートたち、専門家のなかの専門家が、知恵を絞って、イエスをおとしめようとやって来ました。しかし、かれらは、イエスを打ち負かすことは出来ませんでした。イエス様は、父なる神と共に生きておられ、まことの知恵をもって対処されたのです。彼らの中のある者たちは、ごく少数ですが、これらの論戦を通して、イエス様が神の知恵をもっておられることを知ったようです。あとで、イエス様を信じるようになります。しかし、頭の固い、妬みでいっぱいのリーダーたちは、イエスを殺す以外にないという結論へと一歩、一歩、近づいて行くのでした。私たちも、神様の知恵をいただいて、聖霊様のみちびきで、サタンの罠を打ち破る会話ができるように、祈り求めていきましょう。
清宣教師