きょうの25章では、天国に関する3つのメッセージが記されています。
第1に、1節―13節の十人の娘の例え話です。これは24章からの続きで、目を覚まして終わりの時を待つべきであるというメッセージです。10人の娘のうち、5人は愚かで、5人は賢こい娘でした。両方とも、花婿を出迎える役目を与えられていました。さて、花婿の到着が予定よりも遅れて、すでに夜もふけてきました。10人のおとめは、うとうとして、ついに眠り込んでしまいました。そこに、まもなく、花婿が到着するという知らせが入りました。それで、10人の娘たちは起きて、ランプの灯をかきたて、花婿を出迎える準備をしました。すると、愚かな娘たちは、自分のランプの油が足りないことに気付きました。そして、油を買い求めに外に出かけた間に、花婿が到着してしまい、扉が閉じられて、中に入ることが出来なくなってしまいました。一方、賢い娘たちはあらかじめ、予備の油を準備しておいたので、外へ買いにいかなくてすんだので、無事、花婿を迎えることが出来ました。ここでは、目を覚まして、あらかじめ、終わりの日のために備えをするようにとのメッセージが語られています。『油断』ということばがありますが、まさに、この例え話に出で来る愚かな娘たちのしたことです。花婿はキリストを指し、娘はクリスチャンを指していると思われます。つまり、クリスチャンは、あらかじめ、イエス様の再臨があるという事を知らされているので、いつ、再臨があっても良いように、心を整えておく必要があります。
第2に、14節ー30節は、タラントの例え話です。主人がご自分のしもべを呼んで、それぞれの能力に応じて、タラントを渡して旅に出かけました。ある人には5タラント、ある人には2タラント、ある人には1タラントを預けました。1タラントは6000デナリです。1デナリは、1日の日当です。1タラントは6000日分の日当に相当します。いまでいえば、日当を1万円とすれば、1タラントは6000万円に相当することになります。長い年月が過ぎました。主人が帰ってきて、主人が預けたお金について清算するときがきました。5タラント預けられた者は、さらに5タラントを儲けたことを報告して、10タラントを主人に差し出しました。2タラント預けられた者も、さらに2タラントを儲けたことを報告して、4タラントを主人に差し出しました。主人は、彼らに言いました。「良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、たくさんのものを任せよう」と言いました。主人の賞賛のことばは、二人に対してまったく同じことばでした。つまり、設けた金額の量は異なりますが、ふたりが自分に与えられた賜物を忠実に用いたという点で、全く、同じ賞賛のことばをいただいたのです。しかし、1タラント預かった者は、土の中に隠しておきました。しかも「主人が過酷な要求をするひどい方だと分っていたので、こわくなってしたのです」という言い訳をしました。しかし、この例え話の最初に、「主人はおのおのその能力に応じて、預けられた」と言われていることに注意してください。1タラントのものも、1タラントを儲ける能力があったので、主人は1タラントをあずけたのです。しかし、1タラントを預けられたしもべは、土のなかに隠すという最も安易な方法を選び、あとは自分勝手な生活をしていたのです。2タラントや5タラントを預けられた者たちは、一所懸命、主人の財産を増やすために生活していたのです。この例え話は、私たちの人生のことです。私たちはそれぞれ、神様からの賜物を与えられてこの世に生れます。そして、それぞれの人生を送ります。それぞれには、神様からの賜物が必ず、与えられています。私たちは、なにも賜物がありません、とは言えないのです。主が私たちに委ねられた賜物(タラント)は、私たちの人生において使うために与えられているのです。そして、それを使うことによって増やすことが出来るのです。これは、まさに、私たち一人一人が、きょう、主から問われていることです。
第3に、31節―46節は、終わりのさばきのときのことが記されています。羊と山羊の例え話です。人の子(イエス様)が栄光を帯びて、すべての人が御前に集められます。そして、審判のときがきます。ご自分の右には羊たち、左には山羊たちです。羊と山羊とは似ていますが、ここでは、それが分けられます。旧約の時代から、神様は、イスラエルの人たちに対して、やもめ、みなしご、在留異国人には配慮するように命じられていますが、ここでは、空腹で飢え渇いている者たち、旅人、病気の者、牢獄にいれられている者たちへの態度が問われています。羊と呼ばれている人たちは、これらの人々に親切にしました。しかし山羊と呼ばれている人たちは、これらの人たちに無関心でした。イエス様は、こららの最も小さな人たちにしたことは、「わたし」にしたのであると言われました。イエス様への愛は、具体的には、最も小さい人への愛として表現されるというのです。羊の人たちは永遠のいのちにはいるという宣告を受けましたが、山羊の人たちは永遠の刑罰にはいるという宣告を受けました。現代で言えば、イエス様が言われた最も小さい者といわれた人たちの中に、難民やホームレスの人たちが含まれていると思われます。ここでは私たちに信仰の実践の大切さを教えておられます。
清宣教師