マルコの福音書に入りました。著者のマルコは、使徒の働きに数回、登場します。別名、ヨハネともいいました。母の名はマリヤ、エルサレムの裕福な家庭の出身でした。家では女中(お手伝いさん)を使っており、イエスの弟子たちもよく出入りしていた家でした(使徒の働き、12章12節、13節参照)。マルコのいとこが、バルナバです。パウロの第1回伝道旅行のとき、バルナバとマルコが同行していました。しかし、マルコは、伝道旅行の途中で勝手にエルサレムに帰ってしまいました。それで、第2回伝道旅行のときには、マルコを同行するか否かで、パウロとバルナバとの間で大論争となってしまったことは有名な逸話です。結局、パウロはシラスを同行させ、バルナバはマルコをつれて出かけました(使徒の働き15章37節―40節)。しかし、後になって、パウロはマルコと和解したことが記されています。
さて、マルコの福音書は、4福音書の中で最初の福音書ではないかと言われています。また、このマルコの福音書は、ユダヤ人よりも、ローマ人を中心とする異邦人のために書き記したと考えられています。
1章15節の「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様の宣言がなされる前に、主なる神は、いくつかの備えをしておられました。まず、バプテスマのヨハネが、先駆者として、メシヤの道備えをするものとして遣わされました。イザヤ書に預言された通り、荒野において、悔い改めのメッセージをしました。そして、イエス様はヨルダン川で、聖霊の力を受けて、宣教のスタートとしてのバプテスマをお受けになりました。さらに、バプテスマのあと、すぐに荒野に追いやられて、サタンの誘惑をお受けになりました(現代の人は、サタンを否定し、同時に、神をも見失っています。これはサタンの思うつぼです)。つまり、この世のあらゆる問題の背後にはサタンの存在があります。ですから、まず、イエス様は、サタンとの戦いに臨まれました。荒野での誘惑は、本質的に、サタンとの戦いでした。こうして、この世における公けの宣教を開始するための扉が開かれました。そして、イエス様は、神の福音を宣べ伝える働きを始められたのです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」。それから、弟子たちを召されました。シモン(ペテロ)とアンデレの兄弟、ついでヤコブとヨハネの兄弟でした。彼らはみな漁師でした。やがて、弟子の数は、12名となりますが、最初に召されたのは漁師たちでした。ある意味、意外ですね。今でも漁師の人たちは、話が苦手な人が多いように思います。どちらかというと、黙々と仕事をする人というイメージがあります。ペテロとアンデレも、湖に船を漕ぎ出して黙々と網を打っていました。ヤコブとヨハネたちも船の中で黙々と網を繕っていました。しかし、イエス様はその人たちをまず、弟子として召されました。つまり、福音宣教によって成し遂げられた成果は、彼らの家柄や、生まれつきの能力や経歴によるものではないことがあきらかです。主によって召されたこと、これがすべてでした。主が召されて、主が弟子たちを通して宣教のわざを成し遂げて下さったのです。この世での私たちの福音宣教も、同じです。主が召してくださったのですから、主が私たちを通して成し遂げてくださいます。そこに私たちの宣教の土台があります。その後、弟子たちは、イエス様と共に歩むことによって、主によって教えられ、悪霊を追い出し、病を癒し、福音を宣教するチームとして成長していったのです。
今日の個所から教えられることは、宣教の働きの人の根源は、まず、主の召しです。それから、御霊の満たし、サタンとの対決、福音宣教と癒しのミニストリーが続きます。一方、家族や隣人への伝道においては、やはり、愛の心で、信頼関係の絆を結ぶことが、今の時代において、もっとも、効果的な方法であると思われます。
マルコの福音書のキーワードのひとつは、「すぐ」ということばです。1章だけでも9回くらいでてきます。考えてみると「すぐ」というのは気持ちが良いですね。お母さんが子供に手伝いを頼むと、すぐに、手伝ってくれた。祈ったら、すぐに、解決した。でも解決したら、すぐに、次の問題が待ち構えていた。ということもあります。人によって時間的な感覚は違うと思いますが、マルコにとっては、何事も「すぐ」という感覚でうけとめたのですね。1章では、神の国の宣言、弟子たちの召し、宣教の働きという3つの内容を含んでいました。そして、宣教の働きは、神の国の到来のメッセージが中心でした。その具体的な現われとして、悪霊の追い出し、病気の癒し、そして罪の赦しのミニストリーがありました。
清宣教師