きょうのマルコの福音書2章は、(1)中風の人の癒し(1節~12節)、(2)取税人レビ(マタイ)の召命(13節~17節)、(3)断食論争(18節~22節)、そして(4)安息日論争(23節~28節)の4つの出来事を記しています。
今日は、少し、デボーション風にまとめます。22節には、有名なことば、「新しいブドウ酒は新しい革袋に入れるのです」と記されています。イエス様は、この地上で父のみこころを示し、父のみこころを行なうために来られました。まさに、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」との祈りを実現するためでした。それは、この地上のパリサイ人や律法学者たちの宗教指導者たちの教えとは、次元を異にするものでした。パリサイ人や律法学者たちは地に属するものたちであり、神の御子イエスは、天に属するものでした。ですから、神の御子イエス様の教えや生き方は、自分たちの宗教上の伝統を重んじるパリサイ人や律法学者の教えや生き方とはまったく違っていました。
例えば、どんな違いだったでしょうか? 今日の2章において、いくつかの実例をみることができます。まず、パリサイ人や律法学者の生き方は、律法によって人々を罪に定める働きでした。そのようにして、彼ら罪人たちと自分たちは異なるという立場に自分たちを置いて、自分たちを義としていました。例えば、断食を守り、手を洗うなどの宗教儀式を守ることにより、自分たちを義としていました(18節)。また、安息日を守るための多くの規則を定めて、それを守ることで自分たちを義としていました(24節)。こうして、自分たちとは異なる生き方をしている取税人や遊女たちを神から捨てられた罪人とみなして、こういう人たちとは絶対に食事をしない(交際しない)ことにより、自分たちは罪の汚れから守られていると自負し、自分たちを義としていました(16節)。
イエス様はどうでしたか? 今日の個所を読んで考えてみましょう。パリサイ人や律法学者の教えや生き方と、どこが違っていましたか、発見して下さい。ヒントは、5節、17節、27節にあります。そして、新しいブドウ酒は新しい革袋に入れなければならないと言われたイエス様の真意を知ってください。私たちは、新しい革袋になっているでしょうか? 聖霊様の新鮮なブドウ酒を入れる新しい革袋になっていますか? 私たちは天の御国に属する者たちです。天の御国に属する者たちは、天の父なる神のみこころを思い、天の父なる神のみこころを行う者たちです。今日も、わたしたちを聖霊様によって満たして、古い考えから、古い生き方から解放して下さい。
清宣教師