きょうのマルコ10章の個所を読んで、最初に目に入ったのが、イエス様が、創世記1章と2章の記事を引用されているところでした。パリサイ人たちが、イエス様を試す目的で、いつの世でも微妙な難しい問題である「離婚」を取り上げて、質問しました。「夫が妻を離別することは許されるかどうか」という質問です。離婚はダメと言えば厳しすぎる、と訴えることが出来るし、離婚はOKといえば、世に迎合して律法をないがしろにしている、と訴えることが出来ます。このような難しい質問に対して、イエス様は、律法にはどう書いてあるかと答えました。それで、パリサイ人が「モーセは離婚状を書いて妻を離別することを許しました」と答えました。それに対して、イエス様は、それはあなた方の心が頑ななので、この命令を書いたのである」と言われました。つまり、人々が神のみこころを知っていながら、それをないがしろにして離婚しているので、離婚する場合は、正式に離婚状を書いて渡すことを義務付けました。それは夫の身勝手な行為を防ぐためでした。それから、結婚の本質について、創世記1章と2章の記事を引用して、神のかたちに造られた夫と妻が、神によって結ばれ、一心同体となるという本質を明らかにされました。再婚についても、厳しい見方を示されました。配偶者との死別でない場合、離婚後に再婚するならそれは前の配偶者に対して姦淫を犯しているというのです。結婚の本質からいうなら、そういう結論が出ます。弟子たちは、あまりにも厳しいことばなので、「それなら結婚しないほうがましです」と答えています(マタイの福音書19章10節参照)。離婚の問題は、単純ではなく、複雑な人間関係の結果として起こってきます。人間的には、それを批判する資格はありません。しかし、創造主は、世界の初めから、特別に、祝福の手段として結婚の制度をさだめてくださったことは確かです。それにもかかわらず、結婚と家庭は、昔から、サタンの攻撃をうけてきました。サタンは自己中心という人間の性質の弱さを利用して、夫婦の間に隙間をもたらし、やがて、反目、そして、離婚という結果を引き起こしています。神様が、最も忌み嫌うのは高慢であるとよく言われますが、サタンが最も忌み嫌うのは夫婦のカップルです。これこそ、創世の初めに、創造主が神のかたちとして定め、そこに地を治める権威を与え、人類の祝福の土台として与えられたからです。もし、夫婦が創造主のみこころのとおりに、地に増え拡がり、地を治めるなら、この地上にはサタンの支配する地域は存在できなくなるからです。つまり、エデンの園に侵入し、アダムとエバの夫婦を、たくみな誘惑で攻撃して以来、それは今に至るまで、変わらないのです。その延長線上に、LGBTの問題もあるように感じます。LGBTの問題は、今では踏絵のような役割を果たしつつあります。先日、インターネットで報道されていましたが、オーストラリアのメガチャーチの主任牧師がニューヨークで、インタビューを受けたとき、同性婚についてどう思うかという質問でした。そのとき、牧師は直接的な返事をしませんでした。インタビューする側としては、イエスかノーで答えて欲しいと追求しましたが、これはある意味、パリサイ人がイエス様を罠にかけようとして質問した時の状況と似ています。単純に、イエスかノーで答えさせて、その結果をもとに、「世に迎合した牧師」とか「人権を否定した牧師」とかいうレッテルを貼って葬り去ろうという魂胆があります。その牧師は、どのように答えるか、慎重に答えを選んでいました。いずれにせよ、実際の牧会においてLGBTの人たちのために働いている牧師には強みがあります。なぜなら、具体的な神様の生ける働きをみているからです。証しは、言葉を超えて、大きな影響を与えます。LGBTの方でイエス様に出会った人が、救われて、新しく歩む姿こそ、神様の栄光を表すものです。そのような働きをしている教会のために、祈りましょう。

次に、昨日の個所にもありましたが、天国に入るにふさわしいものは、こどもたちのように、自分を低くするものです。こどもたちは、何か業績があるわけではなく、何も資格をもっていません。金持ちの青年(国会議員であったか、貴族であったか、地位も名誉も財産も持っていた人です)が来て、イエス様に対して、「永遠のいのちを得るには、私は何をしたらよいのでしょうか?」と尋ねました(10章17節。私は何をしたらよいのでしょうか?という視点です。イエス様は、この青年をいつくしんで言われました。「かけたことがひとつあります。持ち物をみな売り払い、貧しい人に与えなさい」。青年は、自分は85点、あるいは、90点であると思っていたのかも知れません。戒めも小さなころから完全に守っています。あと何が欠けているのでしょうか?イエス様は、ひとつだけ欠けたところがあると言われました。そのイエス様のアドバイスに対して、青年は、アドバイスを受け入れることなく、顔を曇らせてその場を立ち去りました。ある意味、0点の答案を出して去って行ったのです。天国は、こどもたちのように、何の資格もないものが、恵みによって入るところです。もし金持ちの青年のように、私は何をしたらよいのですかという視点で考えるなら、永遠のいのちを得るためには、永遠に100点満点を取りつづけなければなりません。1回でも、99点をとったら、それで、永遠のいのちを手放すことになります。この青年が0点の答案を出して去った事は、この青年の人生にとって初体験のことだったと思います。しかし、自分は0点で、資格がないというところから、すべてが出発します。この青年のその後のことは記されていませんが、この時点で、初めて、永遠のいのちを得るための求道の人生が始まったと思います。ここで、初めて自分を知ったと思います。85点、いや90点、いや99点の人生だと思っていたかも知れませんが、0点を体験することにより、初めて、子供たちのように謙遜に、恵みを求めるスタートラインに立ったのです。きょうも、父なる神様のみこころに焦点をあてて、謙遜に考えてみましょう。

清宣教師