12章の最初に出てくるのは、葡萄園の例え話です。この例え話を通して、イエス様はいよいよ、ご自分の働きを明確に宣言されています。ですからその話を聞いていた祭司長、律法学者、長老たち(11章27節)は、自分たちをさして語られていることに気付いたのでした(12章12節)。例え話の内容は、ある人がブドウ園を作って、すべての施設を十分に準備して、農夫たちに貸して、旅に出かけました。ある人とは、父なる神であり、ブドウ園とは、イスラエルの約束の土地(あるいは、この世界全体)です。農夫たちは神の民と呼ばれるイスラエルの民(特にその指導者たちを指しています)のことです。そして、季節になると、収穫を期待して、ブドウ園の主人は、しもべを農夫たちのところに遣わしました。しもべとは、神のしもべ、つまり、神から遣わされた主の預言者たちの事です。父なる神はイスラエルの民を祝福しました。その収穫をゆたかにしました。しかし、農夫たち(イスラエルの民、とくに指導者たち)は、主から遣わされたしもべたち(主の預言者たち)を暴力で黙らせたり、当然、お返しすべき収穫の一部も、何ももたせないで送り返しました。それでも、父なる神は、何度も、主のしもべをイスラエルの民のところに遣わしました。当然、イスラエルの神である主に対して、まことの礼拝をもって、感謝と賛美をもって、主に栄光をお返しすべきでした。ところが、さまざまの偶像を礼拝したり、あるいは、自己義認により、単なる表面的な宗教行事をもって、まことの礼拝と取り代えてしまったのです。つまり、イスラエルの民は、主のしもべである預言者たちが、まことの父なる神に立ち返るようになんどもメッセージをしたのですが、かえって、預言者たちの頭をなぐり、辱めました。ついには、殺すほどになりました。そこで、このブドウ園の主人は最後に、自分の愛する息子(メシヤであるイエス様)を遣わしたのです。それは「私の息子なら、敬ってくれるから」という理由でした。ところが、農夫たちはとても陰険で、「あれを殺そうではないか、そうすれば、財産はこちらのものだ」と考えて、その息子をつかまえて殺してしまったというのです。ところで、ブドウ園の主人は、旅から戻ってきたらどうするでしょうか。農夫どもを打ち滅ぼし、ブドウ園を他の人たちに与えるのではないでしょうか、とイエス様は宣言されました。それに付け加えて、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」という詩篇118篇22,23節の聖句を引用されました。家を建てる者たちとは、イスラエルという国を建てる役目を与えられている、民の指導者たち、つまり、祭司長、律法学者、長老たちのことです。彼らが見捨てた石とは、メシヤであるイエス・キリストのことです。その石こそ、真の神の国の礎となるのです。この例え話の真意に気付いた祭司長や律法学者や長老たちは、イエスを捕えようとしましたが、このときは、神の時が来ていなかったので、捕えることができませんでした。群衆たちが、イエス様の盾となって守ったのです。このあとは、納税をめぐっての論争、復活を巡っての論争、律法の真髄を巡っての論争、ダビデの子としてのキリストに関する論争が続いています。最後に、レプタ二つを献金した、ひとりの貧しいやもめがなした行為について、イエス様は、彼女は生活費の全部を献金したということを明らかにされました。神の前では、どんなに小さく見えることでも、正しい評価がなされます。神様は貧しいひとりのやもめのなさることにも、目を留めておられるのです。

清宣教師