イエス様は公の宣教活動に入る前に、バプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマ(浸礼)を受けました。そのあと、御霊に導かれて荒野での試練をうけられました。それはサタン(悪魔)の試みでもありました。時に、父なる神様は、サタンの試み(誘惑)を信仰のさらなる成長のために、あえて用いられることがあります。今回のイエス様の試練がそうでした。宣教活動に入る前に、その備えとして、イエス様は、荒野で40日40夜の断食をしました。神の前に祈りつつ、これからの歩みについて祈り、導きを求められたのだと思います。さて、無事に40日40夜の断食を終えて、ふと、空腹を覚えたときでした。その時がサタンの狙い通りのチャンスでした。私たちも何事かを成し遂げてホッとしたときに、サタンの誘惑に陥りやすいときです。しかし、イエス様は、見事に、サタンの誘惑を退けられました。まず、第1の誘惑は、「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい」というものでした。「神の子なら」という表現ですが、解釈がふたつに分かれます。ひとつは、疑いのことばと解釈します。もう一つは、確信のことばと解釈します。前者はもしあなたが神の子であるというのなら、石をパンに変えてみなさい、という解釈です。後者は、あなたは神の御子であるのだから、この石をパンに変えてはどうですか、という解釈です。いずれにせよ、イエス様が空腹を覚えた瞬間の絶妙のタイミングでのサタンの誘惑でした。しかし、イエス様はご自分の力を濫用させようとするサタンの魂胆を見抜いて、「人はパンだけでいきるのではない」と書いてあると言われて、申命記のことばを引用され、サタンの申し出を拒絶しました。第2の誘惑は、「私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」というサタンの申し出でした。イエス様の生涯の使命は、「十字架の苦難を通しての全人類の贖罪」でした。しかし、サタンは、その目的は、単に自分を拝むだけで成すことができる、という申し出でした。そこで、イエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」という申命記のことばを引用され、サタンの申し出を拒絶されました。第3の誘惑は、聖書のことばを引用して、神殿の頂から飛び降りてみなさい、天使たちがあなたを無傷のままに守ってくれるに違いない。そうすれば群衆たちは、あなたが神の子であることを知るでしょう、という誘惑でした。それに対して、イエス様は、やはり申命記のことばを引用されて「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある、と言ってサタンの申し出を拒絶されました。この出来事は、イエス様が全人類の代表として、つまり、第2のアダムとして、全人類の祖であるアダムがサタンから誘惑されて創造主に背を向けてしまった最初の大失敗を取り返すものでした。まず、人類の祖であるアダムの堕落の根源となったサタンの誘惑に勝利することから始まったのです。これは第2のアダムとしての救い主イエス様にとって避けることができない第1歩でした。このサタンとの戦いは、イエス様の勝利に終わりました。それで、サタンはイエス様のもとを離れざるを得ませんでした。しかし、「しばらくの間」と表現されています。サタンは決してイエス様を堕落させようとする戦いをあきらめたわけではりませんでした。イエス様の模範は、第2のアダムとしての全人類の代表としての戦いでしたから、神の御子としての奇跡は用いませんでした。だれでも用いることができる、神のことば(聖書のことば)を引用して勝利されました。それは私たちクリスチャンに対する模範でした。それから、イエス様は安息日ごとにユダヤ人の会堂に入り宣教されました。その宣教の内容は、権威に満ちたものでした。一方、ユダヤ人にとっては厳しい内容のものでした。神に選ばれた選民である、というような選民意識の上にあぐらをかいていたユダヤ人たちの偽善を徹底して明らかにしました。ですから、ユダヤ人たちはイエスの教えに猛反発して、イエス様を殺そうとしました。他方、イエス様は病人たちのためには寸暇を惜しんで、ひとりひとりに手を置いて病気をいやされました。その忙しさの中でも、祈りの時を忘れることはありませんでした。ひとり、寂しいところへ出ていき、父なる神様との交わりの時をもっておられました。そして、ユダヤの諸会堂で福音を語られました。

清宣教師