ルカの福音書では、イエス様の伝道チームには、12人の男性の弟子たちだけでなく、それを支える裏方として、イエス様に七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリヤをはじめ、自分たちの財産で自費参加したヘロデの執事クーザの妻のヨハンナをはじめ、多くの女性たちが加わっていたことを明らかにしています。つまり、イエス様の宣教旅行を支えるボランティアとして女性たちが加わっていたのです。女性の賜物を生かして、食事の世話、洗濯の世話など、かいがいしく仕えていた様子が目に浮かびます。こうして、宣教チームの働きが整えられて、イエス様の一行は行く先々で多くの群衆に迎えられることになりました。人々が集まると、イエス様は御国の福音を宣教されました。今回は、種まきののたとえ話です。種まきの例え話をされたあと、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と語られました。関心のない者には、単なる種まきの話ですが、聞く耳のあるものにとっては、神の奥義を悟ることが出来たのです。弟子たちが、その奥義が何かわからないので、イエス様に尋ねた時に、イエス様は、懇切丁寧に、その奥義を知らせてくださいました。種は神のことばであり、落ちたところは人々の心です。どんな心で神のみことばを受け取るかによって、神のことばが実を結ぶか否かが決まるのです。正しい良い心で神のことばを受け入れるなら、その人の生活の中で、みことばが豊かな実を結ぶのです。さらに、イエス様は、聞き方に注意するように念を押されました。関心をもって聞く人は、さらに、みことばの豊かさを味わい、関心のない人は、すでにもっていたものまで失ってしまうからです。神の御国の真理とは、求めるものに対して開かれるものだからです。さて、ある日のこと、「さあ、湖の向こう岸に渡ろう」と言われました。そして、イエス様も一緒に船に乗って出発しました。ところが、途中で突風が吹いてきて船が水をかぶり、危険な状態になりました。しかし、イエス様は、ぐっすり眠っておられました。一方、弟子たちは「おぼれて死にそうです」といって、イエス様に助けを求めました。そこで、イエス様は、起き上がって風と波にむかって「静まれ」としかりつけられたので、風も波も収まりました。弟子たちは風や波をもおさめられるイエス様に驚嘆しました。ところで、この聖書個所は、よくメッセージのテーマとして用いられる個所です。私たちも、人生の中で、ある日、「さあ、向こう岸へ渡ろう!」とイエス様からチャレンジを受けることがあります。しかし、それはイエス様も一緒にいてくださる、という約束が伴います。読者の中には、きょう、そのチャレンジを受けている方がおられるかもしれません。イエス様と一緒に、向こう岸へ渡ろうではありませんか。あるいは、すでに、向こう岸への途中にあるかもしれません。そして、試練や困難に直面して立ち往生しているかもしれません。そして、イエス様が眠っておられるような錯覚にとらわれることがあるかもしれません。イエス様が眠っておられるのは、無防備ということではありません。実は、イエス様は父なる神様への全き信頼という防備の中におられるのです。ですから、船は沈まないのです。イエス様は、すでに、湖の向こう岸で待ち構えている悪霊(レギオン)との戦いの中にあったのです。「主に立ち返れば、あなたがたは救われ、主に信頼するなら、あなたがたは力を得る。」という約束のみことばがあります。イエス様の父なる神への全き信頼こそ、力の源でした。イエス様は、ぐっすり眠っておられました。それこそ、父なる神への全き信頼の証しでした。向こう岸について、レギオンが待ち構えていました。レギオンとは、ローマの軍隊の一軍団を意味する名前です。この悪霊は、名前の通り、悪霊の軍団であったようです。つまり、2節では、マグダラのマリヤの描写で、7つの悪霊という表現がありましたが、それとは比較にならない、強力な悪霊の軍団で、この男を支配していたのです。どうやら、このゲラサ地方を支配する悪霊のようです(マルコの福音書5章10節参照)。悪霊は完全にこの男を支配していました。その男を支配している悪霊(レギオン)に対して、イエス様はこの男から出ていけ、と命じられました。それに対して、この悪霊は、そばにいた豚の中に入ることを嘆願して、その願いが聞き入れられた結果、2千頭の豚がいきなり崖をかけ下り、湖に入っておぼれ死にました。神の御子イエス様の権威は偉大です。悪霊が追い出された結果、この男は正気に戻りました。この男はイエス様の弟子になり、イエス様の後についていきたいと願いましたが、イエス様はそれを許さず、自分の家に帰って、神がどんなに大きなことをしてくださったかを証し、報告するように命じました。この男の過去は、詳しくはわかりませんが、妻や子供たちと一緒に暮らしていたのが、何らかのきっかけで、悪霊にとりつかれ、凶暴になり、裸で歩き回り、家を出て墓場に住むようになり、人々から恐れられ、捕らえられ、鎖や足かせをかけられて縛られていたのです。それでも、途方もない力で、鎖を引きちぎり、荒野でさまよっていたのです。悪霊の特徴は、人を完全に支配すること、その人の人格を破壊すること、その人を卑しめること、などです。つまり、神のかたちに創造された人を、徹底的に辱めることを通して、神に反逆しているのです。そして、今も、悪霊の働きは続いています。救い主、イエス様による解放が絶対に必要です。それが主イエスの御名による悪霊追い出しのミニストリーです。他方、聖霊なる神様の特徴は、人の自由意思を尊重されることです。決して、人を支配することはなさいません。黙示録の中で描写されているイエス様のお姿もそうです。玄関の戸の外に立って、戸を叩いているイエス様のお姿です。内側から戸を開けないかぎり、無理矢理、入られることは決してありません。悪霊はスキを見せたら、強引に入り込み支配する存在です。ですから、悪霊を架空の存在とか、無力な存在であるかのように錯覚して、悪霊との交信や、占いに参加したり、呪文などを唱えたり、遊びと錯覚して悪霊のゲームなどに、参加してはいけないのです。また、人を呪ったり、霊的パワースポットなどに、近づくことは絶対に避けるべき事柄です。イエス様が、悪霊につかれた男を家に帰らせたのは、その男の奥さんやこどもたちが、長い間、とてもひどい苦しみの中にあったからです。近所の人々からも迫害をうけていました。しかし、その男が、あたかも別人になって、神様に愛され、神様の恵みを受けた人として、柔和な夫として、やさしい父親として、家に帰ったのです。ですから、町中の人が、それを確かめ、その男の解放を通して、神をあがめることになりました。妻もこどもたちも、長い間の苦しみを取り除かれ、喜びでみたされたのです。主を賛美します。

清宣教師