イエス様はさらに宣教活動を拡大するため、いよいよ、第2弾、12弟子のほかに70人の弟子たちの訓練を終えられて、宣教旅行に遣わしました。すごいですね。イエス様は一歩、一歩、着実にプランを実行されています。そして、70人を遣わす前のメッセージです。「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです」と語られました。さらに、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」と言われて締めくくられました。こうして、70人の弟子たちは、それなりの覚悟が出来るともに、自分たちの使命の重大さ、自分たちの役割の重大さに深い感動と生きがいを感じて出発したに違いありません。そして、実際に、70人の人たちは立派に使命を果たして、喜んで帰ってきました。そして、イエス様に「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」と報告しました。それに対して、弟子たちが立派に役割を果たしたことをねぎらうとともに、ひとつ、注意されました。「しかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」。大事なことは、Doing(行い)ではなく、being(生き方)です。「悪霊追い出し」という働きそのものに関心が行くと、道を踏み外してしまう恐れがあります。ある人たちは、悪霊追い出しに夢中になり、異端に走ってしまいました。それよりも、主の恵みによって、永遠に御国の子とされたこと、つまり、私たちの名前が天のいのちの書に記されていることを喜ぶことが大事である、と注意されたのです。さて、ルカの福音書にだけ記されている有名なたとえ話が、「良いサマリヤ人のたとえ話」です。律法の専門家がイエス様に質問しました。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という教えに関連して、「隣人とは、誰のことですか」と質問しました。その律法の専門家の本心は、質問というよりも、自分がこの戒めを誰よりも実行していること、どれほど、ユダヤ人同胞を愛しているかを話する機会を得て、みんなの前でイエス様にほめてもらいたいという魂胆でした。ところが、イエス様は意外にも、たとえ話を披露されたのです。あるユダヤ人が、強盗に襲われました。そこを主の宮に仕える祭司が通りかかりました。しかし、かかわりを恐れて、道の反対側を知らないふりをして、通り過ぎました。つぎに、やはり、主の宮に仕えるレビ人が通りかかりました。彼もまた、祭司と同じように、かかわりを恐れて、道の反対側を通り過ぎていきました。ところが、ユダヤ人にとって敵対関係にあったサマリヤ人が通りかかりました。当然、知らないふりをしてもよいのに、そのサマリヤ人は強盗に襲われた人を可哀そうに思い、手厚く、介抱するだけでなく、宿屋の手配までしてお世話をした、というたとえ話です。そして、イエス様は、その律法の専門家に問いました。誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。それで、律法の専門家は答えました。その人にあわれみをかけてやった人です。そこで、イエス様は、あなたも行って同じようにしなさい、と言われました。誰が私の隣人かなどと言って自分を正当化するのではなく、必要な人には敵味方の関係なく、憐れみを示す人(隣り人)になるようにとの勧めでした。そして、イエス様こそ、真の良きサマリヤ人であったのです。さて、もうひとつ、ルカの福音書にだけ出てくるエピソードです。マルタとマリヤの姉妹の家での出来事でした。姉のマルタは、イエス様の一行を迎えるのに、あまりにも忙しくて分別を失って、イエス様に「私の妹に、私を手伝うように言ってください」と文句を言ってしまいました。それに対して、イエス様は、あなたはいろいろなことに心を配ってイライラしているけれども、必要なことはただ一つ、みことばを聞くことです、そして、マリヤはその良いほうを選んだのです、と言われました。ある注解者は、もてなしに必要なものは、ただ一皿でよい、と適用している人もいます。マルタの失敗は、私たちにありがちな失敗です。Doingに夢中になり、beingがおろそかになってしまうことです。「いつも、主にあって喜びなさい」。御霊の結ぶ実は、愛、喜び、平安です。サタンの計画は、私たちをイライラ、不満、つぶやきの深い穴に落とし込むことです。きょう、必要なことは、ひとつだけです。主にあって落ち着いて、主の平安のうちに過ごすことです。

清宣教師