そうこうしているうちに、おびただしい群衆が集まってきました。ところが、イエス様はまず、弟子たちに対して、お話する必要がありました。「パリサイ人たちの偽善に気をつけなさい」と言われました。当時、パリサイ人や律法学者たちは、宗教指導者として一般のひとたちの上に絶対的な支配力を維持していました。神の神殿に仕える祭司たち、そして、神のことばを教える律法学者、自分たちを一切の汚れから分離して聖別された生活をするパリサイ人(分離派)たち、彼らは、神の前に罪深い一般民衆とは異なることを強調して、宗教指導者として一般の人たちの上に君臨していました。このようなマインドコントロールによって、一般の民衆たちは、盲目的に、彼らを尊敬していました。イエス様の弟子たちでさえ、例外ではありませんでした。まず、弟子たちの目を開かなければなりません。イエス様は、くれぐれも、パリサイ人たちの偽善に気を付けなければならない、と弟子たちに警告されたのです。外見上の、宗教的な権威に惑わされてはならないのです。人間的な権威に対して恐れるのではなく、それらの者たちの真実を見抜き、裁かれる生ける神ご自身を恐れることこそ、神を敬うものの本分なのです。人を恐れるのではなく、神を恐れるものとなれ、というのです。それからイエス様は、集まった群衆たちに、たとえ話を交えながら、いくつかのメッセージを語られました。まずは、財産を自分の頼みとして生きていた愚かな金持ちのたとえ話をされました。せっかく財産を蓄えても、いのちを失ってしまえば、その財産は、他の者の持ち物になってしまうのです。そうではなく、第1にすべきことは、神の国を求めることです。神の国に入る者となることです。そのためには、財産や衣食住などに心を奪われて生きるのではなく、すべてのものを、こどもたちのために備えてくださる、天の父なる神に信頼して、ゆだねて、生きる人生を送ることです。私たちにいのちを授けてくださった父なる神を礼拝し、そのみこころを求め、父なる神が準備してくださっている神の国のこどもとなることを第1の願いとすることです。そうすれば、父なる神は、喜んでご自分の子たちのために備えてくださった御国を受け継ぐことを許してくださるのです。私たちの宝は、この地上に蓄えるのではなく、天に蓄えることです。そうでないと、この地上の宝に心を縛られて、天の御国に入れなくなるからです。天に宝を蓄えることにより、天の御国に入ることが楽しみとなるのです。やがて、この世は裁きの日を迎えます。主は裁きのために、この世に再び来られるのです。不正なものを裁き、忠実なものに報いを与えるために来られるのです。そこで、イエス様はたとえ話を通して、目を覚まして、主を迎えること、忠実なしもべとしての生き方をして、主から報いを受けることが出来るように、弟子たちを励まされました。終わりの日の時代のしるしを見分けて、忠実なしもべとしての生き方をするように、強く勧められました。私たちも、主から委ねられている持ち場、賜物を大切にして、主からの永遠の報いを見失うことなく、目標を目指して走りとおすことです。雲のように多くの忠実な証人たちが、私たちの信仰の生きざまを見守っています(へブル人への手紙、12章1節参照)。

清宣教師