イエス様が群衆たちに話をしている最中に、ある人たちがやってきてイエス様に報告しました。ローマの総督ピラトが、ガリラヤ人たちを殺害して祭壇の血に混ぜたという内容でした。おそらく、ガリラヤ地方の過激な愛国者たちがローマ当局と衝突して、流血事件となり、彼らが祭壇に動物の犠牲をささげていた時に、ガリラヤ人たちの血が祭壇の犠牲の血に混じったという事件のようです。これを報告したユダヤ人たちは、日ごろからガリラヤ人たちを軽蔑しており、彼らが災難にあったのは、彼らの罪のせいであり、神からの罰を受けたのに違いない、という判断があったからです。それに対して、イエス様は、災難を受けたガリラヤ人たちがほかのガリラヤ人たちよりも罪深かったのではない、みな同じであり、罪を悔い改めなければ滅びてしまう存在であることを指摘しました。さらに、当時のエルサレムで起きたシロアムの塔の倒壊により18人の人たちが犠牲となった大事件をとりあげて、犠牲となったひとたちが、ほかのエルサレムの住民たちよりも罪深いために犠牲となったわけではない、と指摘しました。みな同じ罪人であり、悔い改めなければ滅びる存在であることを指摘しました。当時のユダヤ人たちは、災難に会うのは、その人たちの罪のせいであると考え、自分たちが災難に会わなかったのは、自分たちがましな人間であるから災難に会わなかったのだと、自分たちを義とする風潮がありました。イエス様は、そのような偽りの優越感を完全に否定されたのです。そして、ひとつのたとえ話をされました。実を結ばないイチジクの木のたとえでした。イチジクの木が切り倒されないのは、ただ番人であるイエス様の執り成しのおかげであり、自分を義として悔い改めの実を結ばないなら、結局切り倒されてしまうのです。災いをまぬかれているのは、ただ、悔い改めの機会を与えて忍耐して待っておられる御父の憐れみに拠るのです。次に、安息日における癒しの問題が再び、登場しています。18年間も腰が曲がって全然伸ばすことが出来ない女性がいました。そこで、イエス様はいやしてあげました。それを見た会堂管理者が安息日にいやしのわざを行ったイエス様を非難しました。群衆たちもそれに同調しました。それに対して、イエス様は、この女はアブラハムの娘です、18年もサタンがこの女を縛っていたのです。なぜ解放してあげてはいけないのか、と諭されました。すると、反対者たちは心のすぐな人たちであり、イエス様を非難したことを恥じ入り、イエス様の輝かしいみわざを喜ぶものとなりました。さて、イエス様は、神の国は、からし種のようなものである、と言われました。からし種とは、ほんとうに小さな種です。みなさんがいま読まれている聖書の句読点(。)の大きさです、吹けば飛ぶような小さな存在です。しかし、庭に蒔かれて成長すると、どんな木よりも大きく成長するのです。それはパン種のようでもあります。とても小さな量なのに、3サトン(石油缶ふたつの容量)の粉を膨らませてしまいます。つまり、神の国は、始めは小さくても、とても大きな影響力をもち、成長するのです。イエス様は、そのあと、町々村々で、この御国の福音を教えながらエルサレムへの旅を続けられました。そして、実際、この御国の福音は、イエス様が語られたように、その後、全世界に広まりました。エルサレムに近づくと、何人かのパリサイ人たちが、エルサレムに近づかないように警告しました。しかし、イエス様は、預言者はエルサレム以外で死ぬことはあり得ない、と言われてご自分の使命を明らかにされました。同時に、エルサレムに対して、嘆きのことばを発せられました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」。このイエス様の嘆きは、イエス様の十字架の受難と復活ののち、やがて、使徒たちの働きにバトンタッチされて、エルサレムの中から多くの信者たちが起こされることへ繋がるのでした。

清宣教師