イエス様は当時、聴衆に良く知られている羊飼いの例え話をしました。夜は羊を外敵から守るために、群の周りを高い石垣を積んで囲い、ひとつの門をつけました。門には門番がいて、羊飼いと羊の出入りのときだけ、門を開きました。門から入らないで囲いを乗り越えるのは、羊泥棒や強盗でした。毎朝、羊飼いは一匹、一匹の羊の名前を呼んで、囲いの外に連れ出して、緑の草のあるところに連れて行きます。羊たちは、羊飼いの声を良く知っており、羊飼い以外の人が羊の名を呼んでも羊はついていきません。羊たちは自分たちの羊飼いの声を聞きわけることが出来るのです。イエス様のお話しを聞いた人たちは、お話しの内容は良く理解したに違いありません。しかし、その例え話にはどんな意味があるのか、分らなかったようです(6節)。それで、イエス様は、説明されました。イエス様は、ご自分が羊の門であると言われました。つまり、羊を守る者です。そして、羊たちが門から出入りする時には、羊たちは安全が保証されます。しかし、門から入らず、羊を盗みに来るものは、羊たちのいのちを、自分たちの利益のために殺したり、売りさばいたりするのです。しかし、イエス様は、羊たちのいのちを守り、しかも、そのいのちを豊かに持つことができるように、この世に来られたのです。そして、イエス様はご自分のことを「良い羊飼い」であると紹介されました。そして、ただの雇い人である場合と比較しています。良い羊飼いは羊に仕えます。しかし、強盗や盗人たちは、ただ、羊を利用するだけです。また、良い羊飼いは羊を育てます。そして、良い羊飼いはいざというときに羊のために命を捨てます。実際、当時の羊飼いが、羊を守るために野獣と戦い、いのちを落としたという話が残っています。雇い人の場合は、野獣が襲い掛かってくると、羊たちを置いて逃げてしまいます。最後に、まことの羊飼いは、ひとつの群をつくります。イエス様は、ユダヤ人だけでなく、異邦人たちの群をも、ひとつの群とします(16節)。これらのイエス様のお話しは、聴衆たちの間に分裂を起こしました。イエスのお話しを聞く時、聴衆は、決断を迫られます。イエスの話(真理)受け入れるか、拒絶するかのどちらかです。イエス様は言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(10節)。アーメン!イエス様、今日も私たちを導いてください。あなたこそ、まことの良い羊飼いです。主イエス様の御名をほめたたえます。

清宣教師