パリサイ人の指導者で、国会議員のひとりでもあったニコデモが登場します。『夜』と記されています。これはとても印象的なことだったのでしょう。ヨハネは19章39節で、ニコデモを紹介する時に、「夜イエスのもとに来たニコデモ」と記しています。パリサイ人の指導者であり、思慮深い人だったのでしょう。人目を惹く昼間ではなく、人目につかない夜にイエスを訪ねてきました。パリサイ人たちのイエスに対する評価が悪くなっているにもかかわらず、ニコデモは自分自身で、イエスのもとに来ました。そして、「先生(ラビ)」と呼びました。教師として認めて、尊敬のことばを用いました。なぜなら、これまでのイエスのことばと行い、そしてとくに注目したのは、イエスのしるし(奇蹟)でした。これは神ご自身にしかできないことでした。人間には出来ないことです。ですから、率直に、「神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことが出来ません」と告白しました。ニコデモは年をとっていましたが、柔軟性があり、しかも、真理を求める求道者でした。神の国が到来したかのように、水が香り良いブドウ酒に変わる奇蹟、婚宴の席での花婿の失望が、喜びに変えられる奇蹟、神の国はもう来ている?のだろうか。ニコデモの求道心を見抜かれたイエス様はおっしゃいました。「まことにまことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。そこで、イエス様とニコデモが問答します。Q「どのようにしてもう一度生まれることができるのか?」A「水と霊によって生まれることである」。ある注解者は、このように言います。人は水のバプテスマによって目に見える教会の一員となるが、霊のバプテスマによって目に見えない普遍的な教会の一員となる。ある人は、水とは悔い改め、ある人は、水とはみことばと解釈する人もいます。結論としては、「肉によって生まれる者は肉であり、御霊によって生まれる者は霊である」と言われています。天から、天の国に属する者として生まれなければ、天の国に入ることが出来ません。天から、聖霊によって全く新しく神の子として生まれなければ天の国に入ることは出来ないのです。Q「どのようにして、そのようなことがありうるでしょうか?」A.「わたしは見たことを証ししているのだ」。パリサイ人の指導者である、専門家でも、神の霊によってなされることを理解することは難しかったのです。これは、どのようにして、という解明をしようとしても分らないことです。ただ、その働きの結果は明らかに見ることが出来るのです。水がブドウ酒に変わる過程は解明できませんが、神の力によってなされたことは明らかです。御子を信じる者は、御霊による永遠のいのちを受けるのです。それを解明することは不可能でも、しかし、その事実は確かなものです。神の御子は十字架に上げられました。信仰を持って十字架のイエスを仰ぎ見るものはみな、罪赦され、聖霊による永遠のいのちをいただくのです。

清宣教師