昨日は、ユダヤの宗教指導者であり、国会に相当するサンヘドリンの議員であったニコデモが登場しました。ニコデモは、自分の方から、しかし、人目をさけて夜にイエス様にお会いしました。そして、イエス様から個人伝道を受けました。きょうの4章では、サマリヤ人の主婦のひとりがイエス様から個人伝道をうけている姿が描写されています。そこには、いろいろな対照があります。ニコデモの場合は夜。サマリヤの女の場合は真昼。ユダヤ人(宗教指導者)とサマリヤ人(宗教者から軽蔑されている人)。男性と女性。求道してきた人と行きがかりの人。家の中と戸外(井戸端)などの対照。こうしてヨハネの福音書の著者は、イエス様の愛が、もろもろの人に及んでいることを示そうとしていると思われます。ニコデモとサマリヤの女の共通点もあります。二人とも、イエス様のお話しを聞いても、最初はイエス様の話の真意をつかむことが出来ませんでした。ニコデモの場合は「あなたは、それでもイスラエルの教師なの?」と言われてしまいました。それでも、聖霊による新生という極意を教えていただくことが出来ました。一方、サマリヤの女もまた、聖霊による満たしという極意を教えていただきました。自分から求めてイエス様のもとにやって来たニコデモでしたが、むしろ、これまでの宗教体験が邪魔をして、イエス様の教えを理解することが難しかったようです。一方、サマリヤの女の場合は、町の人たちからも白眼視されている立場の女性で、人目を避けて、井戸の水を汲みに来たのですが、心が渇いていたので、素直にイエス様のお話しを聞くことが出来ました。この女性は5回も離婚しており、今は、正式の結婚ではなく、夫と同棲しているような生活でした。町の人たちの井戸端のうわさ話にはなっても、自分からその中に入って悩みを相談できるような境遇にはなかったようです。5回の離婚という人生の巡り会わせのゆえに、話し尽くせぬほどの悩みや苦しみを抱えていたに違いありません。姑との関係、あるいは小姑との関係を含めて、解決のない、希望のない人生の中に閉じ込められていたようです。しかし、聖書は言います。「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」(4章4節)。イエス様の中には、すでに、御計画があったのです。イエス様は、このサマリヤの女に会ってお話ししなければならなかったのです。こうして、偶然のような出会いでしたが、それは神様の憐みによる計画でした。そして、サマリヤの女は、イエス様から生ける水の話を聞きます。そして、次第に心を開いていき、ついに、「キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています」という信仰の告白へと導かれました。そして、イエス様の口から、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(26節)という応答をいただきました。これはとても不思議なことです。ニコデモのような正統派のユダヤ律法の指導者にではなく、宗教的には不純なサマリヤの、しかも、離婚を繰り返し、いまは男と同棲している女性に、みずからを現されたのです。このサマリヤの女性が、どれほど、心の中で渇きを覚えていたのか、その渇きこそ、神様が目を留められた理由であると思われます。霊的な飢え渇きこそ、主が目を留めて下さる吸引力です。私たちの心が、霊的な飢え渇きで、いっぱいになっているなら、聖霊様のいのちの水が、心の奥底から湧いてくるのですね。そうでありたいです。

清宣教師