昨日の6章1節~14節には、イエスが神の御子であるという第4番目のしるしとして5000人のパンの給食の奇跡が記されていましたが、その直後の6章16節~21節には、第5番目の奇蹟が記されていました。イエス様が荒れ狂う湖上を歩かれた奇跡です。天と地を創造されたイエス様のみわざでした。そして、6章の後半からは、弟子たちの離反のことが記されています。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と言って、弟子たちのうちの多くの者がイエスのもとを去って行きました(60節、66節)。一方で、12弟子たちは、イエス様に忠誠を誓うのですが、その中のひとりは、イエスを裏切るユダでした(70節、71節)。イエス様の心中は、すでに、「十字架を負う」というご自分の使命を覚えて、霊的な戦いの中にあったと思われます。さて、きょうは7章です。「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」(1節)と記されています。この場合のユダヤ人とは、宗教指導者たちを指していると思われます。指導者たちの妬みと憎しみは、イエスを殺害するというところまで、大きく膨らんでいました。ときは、仮庵の祭で、全国から巡礼者がエルサレムに上るときでした。イエス様はひそかに、上京されました。この祭りの中で、イエス様は大声あげて言われたことが記されています(28節)。しかし、その一度だけではありませんでした。祭りの終わりの大いなる日に、「イエスは立って、大声で言われた」(37節)と記されています。7章の中に、2度も、イエス様が「大声」をあげていわれたと強調されていることを読むとき、ひとつは、祭りの喧騒のなかでの描写ということも出来ますが、むしろ、これまでにないイエス様の決意が込められているように思われます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」そして、これはイエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。とヨハネが注釈を入れています。イエス様の切なる願いが、「大声」となって、イエス様の口からほとばしり出たのであると思います。十字架の犠牲を通してのみ、実現される御霊の注ぎです。私たちはいま、この特権に預かっているのです。

清宣教師