ヨハネの福音書、8章です。イエス様は、オリーブ山に行かれました。いつものように夜を徹してお祈りされたのでしょう。そして、朝早く、まだ、薄暗い頃、宮に入られました。そこにはすでに民衆たちが待ち構えていました。イエス様の宣教を聞くために集まっていたのです。彼らは心が乾いていた人たちでした。イエス様が宮に来られると、民衆はすぐに、みもとに集まってきました。それで、イエス様は、その場にあったイス、あるいは、階段に腰を掛けられたのでしょう、お座りになると口を開かれて、早速、神様のみことばを教え始められました。すると、突然、騒がしい一団がやってきました。そして、その場の雰囲気を無視して、一人の女をイエス様の前に投げ出して、周りを囲み、イエス様に訴えました。律法学者とパリサイ人の集団でした。「先生」とイエスに呼びかけました。しかし、それは「ことば」だけでした。もし、本当に、先生と尊敬しているなら、先生が民衆を教えているところを勝手に中断させて、割り込むはずがありません。彼らは、姦淫の現場で捕えられたひとりの女を連れてきて、民衆たちと先生の間に割り込んで、訴え始めたのです。「先生、この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と質問しました。これは、偶発的な出来事のように見せかけていますが、本当は、周到に仕掛けられた罠でした。6節に記されています。「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。」罠とは、動物がいったん引っかかったら決して逃げることが出来ないように仕組まれたものです。動物の死を意味します。ここでは、どういう意味での罠だったのでしょうか?それは、イエス様が、もし、石打ちにはしないという結論を出すなら、モーセの律法を無視する偽りの預言者であるというレッテルを張ることが出来ます。一方、モーセの律法の通りに石打ちにせよ、と言えば、ローマの法律を犯すことになります。つまり、死刑にする権利は、ローマの総督がもっているもので、ユダヤ人が勝手に決めることが出来ませんでした(ヨハネ18章31節参照)。もし、イエスが石打ちを命じれば、すぐに、ローマの官憲に訴えることが出来ます。どちらに転んでも、イエスを葬り去ることが出来るという、周到に仕組まれた罠でした。イエス様を油断させるために、偶発事故にみせかけ、しかも、先生と呼びかけたのです。これに対して、イエス様は、地面に何かを指で書き始められました。律法学者とパリサイ人たちの訴えを無視されました。律法学者とパリサイ人たちは、あせりました。なんとか、イエスに回答させなければなりません。ですから、口々に訴え、問い続けてやめませんでした。そうすると、イエス様は身を起こして言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に何かを書かれました。そうすると、驚くべきことが起こりました。律法学者とパリサイ人たちは、それを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行ったのです。そこに、イエスがひとり残されました。もしも、律法学者やパリサイ人たちが、本心から、このような対応をしたのなら、彼らの心には真実が残っていたということになります。しかし、もう一つの解釈があります。それは、律法学者やパリサイ人たちと言えば、自分を義とする人たちでしたから、罪のない者が石を投げなさいと言われたら、真っ先に、競い合って、石を拾うような人たちでした。それにもかかわらず、そこを立ち去ったのには理由があったというのです。そのヒントは、イエスが地面に何かを書かれていたという記事です。問い続ける者に対して、「罪のない者が、最初に彼女に石を投げつけなさい」と言われてから、イエスは、もう一度身をかがめて、何かを地面に書かれました。おそらく、最初に石を拾った者が、いらだちつつ、イエスの背後から何を書いているのか、覗き込んだのではないでしょうか。すると、そこには、他の人が知らない自分の罪が記されていたというのです。こうして、ひとりひとり、年長者からその場を立ち去ったのではないかという解釈です。さて、イエスは身を起こして、その女に言われました。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言いました。「だれもいません。」最初に、パリサイ人と律法学者たちによって訴えられた女ですが、裁判では、訴訟人たちがいない場合は、裁判は成立しません。ここでは、女を訴える者が誰もいなくなったわけですから、自動的に、訴えは無効ということになります。それで、イエス様は言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」この場で唯一、罪のない者とは、イエス様だけでした。しかし、イエス様も、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣告されました。そして、これからは決して罪を犯してはなりません、と言われたのです。この出来事は、私たちが福音書の中で、もっとも感動した出来事のひとつであることに間違いないと思います。

きょう、また、新しい感動をもって、イエス様を賛美します。

清宣教師