ヨハネの福音書、12章です。ベタニヤのある家での出来事です。マルタはいつものように給仕していました。死からいのちへとよみがえらせていただいたラザロもいました。ラザロは、末っ子だったようです。マルタとマリヤの姉妹に愛されていました。幼くして両親を失ったのかも知れません。そこに、マリヤがあらわれて、イエス様の足にナルドの香油(300グラム)を塗りました。これは1グラム1万円にも相当する高価なものでした。300グラムで300万円に相当します。マリヤやマルタにとって、弟のラザロのよみがえりが、どれほど大きな喜びであったかが分ります。家は、香油のかおりでいっぱいになりました。ところが、「もったいない」というユダの冷ややかな鋭いことばで、その場の雰囲気は一変してしまいました。しかし、イエス様は、マリヤの心を御存知でした。また、ユダの真の動機もご存知でした。そして、マリヤのしたことは、いまでは、全世界に愛の模範として、福音と共に、伝えられています。「いつまでも残るものは、愛です」。イエス様のことを覚えてなした愛のわざは、いつまでも、残ります。きょう、みなさんがイエス様のことを覚えてなされた愛のわざは、永遠に覚えられます。

さて、イエス様がエルサレムに入城された日、群衆は歓呼をもってイエス様を迎えました。しかし、それはやがて一変します。「ホザナ」という歓呼の声が、数日も経たないうちに、「十字架につけろ」という罵声に変わります。人々の反応はあてになりません。

ある人は、イエス様がメッセージを語ればみな救われると信じています。しかし、イエス様が背広を着て、講壇でメッセージを語っても、みな救われるわけではありません。もしそうであるなら、人々が救われないのは、イエス様が語られないからであるという結論になります。そうではありません。イエス様が語られても、信じない人は信じないのです。つまり、メッセージを聞く人に責任があるのです。その聴き方によって、簡単に、態度が変わるのです。ナザレの村の出身のイエス様のメッセージを受け入れたのは、謙遜な魂のひとたちでした。どんな人が語っても、神のことばは神のことばです。それを見分けるのは、謙遜な魂の人たちです。「心の貧しい者は幸いです。」「狭い門から入りなさい。」人間中心の考え方を捨てましょう。自分は何が正しいか判断できる、と考えているなら、神のみことばを聞き逃してしまう恐れがあります。謙遜に自分を低くして、考えてみましょう。

さて、ヨハネは、預言者イザヤのことばを引用して、「主は彼らの目を盲目にされた。・・・彼らを癒すことがないためである」という預言が成就したと言います。それで、ある人たちは、預言されている通りになったのだから、人間の側の責任ではなく、神のがわに責任があると主張します。ここで注意したいことがあります。滅びの預言は、それが成就するためにあるのではなく、それが成就しないための警告です。「この農薬は口に入れてはいけません。これを飲むと、死ぬ恐れがあります。」と書いてあるのは、これを飲むためですか、いいえ、飲まないで、死なないためです。滅びの預言も同じです。そうならないための警告です。神のことばを受け入れるなら、ほろびの預言は成就しないのです。反対に、神のことばを受け入れない時、ほろびの預言は成就するのです。たとえば、エジプトのパロは、モーセのことばをことごとく拒否したために、10の災害の滅びの預言がすべて成就しました。しかし、ニネベの人たちはみな、ヨナのことばをことごとく受け入れたので、災害の滅びの預言はまったく成就しませんでした。滅びの預言は、高慢を打ち砕き、災害が成就しないための警告です。預言があるから、災いが成就するのではなく、預言を拒否することにより災いが成就してしまうのです。主は、恵み深く、いつくしみ深いお方です。このお方に信頼しましょう。イエス様こそ、私たちの問題を解決してくださる唯一のお方です。

清宣教師