ヨハネの福音書13章です。きょうの箇所には、サタンが用いる手口が記されています。サタンはユダの思いの中に、イエスを売ろうとする思いを入れていた、と記されています(2節)。サタンは、私たちの思いの中に、ひそかに、ある思いをいれるのです。その思いがふくらみ、実際に行動に移させようとするのです。私たちの思いが無防備である時、注意が必要です。ユダの場合は、12章6節で、お金を盗んでいたと記されています。つまり、お金に対する執着心があったのです。サタンはそこを防御の破れ目として利用しました。私たちが何かに執着しているもの、欲があると、そこから突破口を見つけて、サタンの都合のよい思いを入れることが出来るようです。ユダの心の中に、イエスを売ろうとする思いを入れたのです。その見返りにもらえるお金が、イメージとして浮かび上がったと思われます。ルターが言いました。「鳥が頭の上を旋回するのは止められない。しかし、自分の頭の上に巣をつくることは止めることが出来る」つまり、誰であっても、誘惑そのものは避けられないのです。しかし、その誘惑が心の中に入り込み、思いの中に巣をつくることは止めることができるのです。しかし、ユダは、そのままにしました。そして、遂に、機会が来て、サタンがユダの心に入り、行動に移るのです(13章27節)。私たちは、お金に対する執着、ギャンブルに対する執着、性的なものに対する執着、あるいは自分の感覚、判断、感情などに執着するとき、サタンは容易に、私たちの思いの中に、偽りを入れることが出来ます。私たちは、これらの執着心を、イエス様に取り除いていただく必要があります。

それでイエス様は、弟子たちのひとりひとりに対して、足を洗ってあげました。その中には、ユダも含まれていました。足を洗うことが、先生であるイエス様と弟子たちの絆となるのです(8節)。そして、互いに足を洗いあうように命じられました。お互いに足を洗うことを実行することです。しかし、ユダの場合、他の11人の弟子たちのようではありませんでした。すでに、心が頑なになっていたようです。洗足を通して、イエス様との絆の中に守られることはありませんでした。そして、ユダは席を立って外の暗闇の中に出て行きました。ユダのようにではなく、他の11人の弟子たちのように、イエス様から離れないようにしましょう。心を頑なにすることなく、遜って、イエス様のところに留まりましょう。イエス様はあなたの足を洗って下さいます。

イエス様は、12人の弟子たちに対して、「互いに愛し合いなさい」と命じられました。これは新しい戒めとして与えられました。さて、この愛し合いなさいと言う、ギリシャ語は、「アガペー」です。イエス様の愛、無私の愛、見返りを期待しない愛、一方通行の愛です。一方、人間の愛はトラブルメーカーです。見返りを期待する愛です。ですから、愛すれば愛するほど、見返りがないと憎しみに変わってしまう愛です。この愛で愛するなら必ず、人間関係を破壊してしまう恐ろしい愛です。「愛している」と思い込んでいますから、自分が見えなくなります。その愛が、トラブルを起こしていることに気付くことがないのです。イエス様が言われた愛は、アガペーの愛です。これだけが人間関係を修復する愛です。一方、人間の愛は不完全であり、見返りがないと、裁きしか残らない殺伐としたものです。神の御子が十字架の上でご自分のいのちを、愛する者たちにお与えになった愛がアガペーの愛です。この愛は、真の問題を解決する愛です。

ペテロも、他の弟子たちも失敗しました。しかし、イエス様は、真のアガペーの愛をもって弟子たちひとりひとりを赦して下さいました。イエス様のアガペーの愛と赦しは、私たちを破滅から救い出し、新しい人生を築かせてくださいます。

清宣教師