イエス様は、弟子たち一人一人に語りかけられました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1節)。外は暗くなってきた食事の席で、イエス様は十字架のご最期を覚えて、その愛を残るところなく示されましたが、その中には、ご自分を裏切るユダがいることを知っていました(13章1節)。それでも、イエス様は、弟子たちの足を洗われました。あるいは、ユダが悔い改める最後のチャンスだったのかも知れません。イエス様は、愛をもってユダの足を洗ってあげました。そして、互いに足を洗うように弟子たちに命じられました(13章14節)。しかし、ユダの心は頑なでイエスを裏切るという思いを変えることが出来ませんした。とうとう、サタンがユダに入りました。そこで、イエス様はユダに対して「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と命じられました。ユダが出て行くと、イエス様は、今こそ人の子は栄光を受けました」と宣言されました(13章31節)。それから、ペテロがイエスを裏切ることを予め予告されました(13章38節)。その夕食の席は、いつもと違って、ただならぬ雰囲気が漂っていたと思われます。弟子たちの心に、得体のしれない不安が広がっていました。もし、ご自分がローマの官憲に捕えられて、十字架で処刑されるなら、弟子たちの恐怖はどれほど、大きなものとなるでしょうか。そのような状況の中で、イエス様は、心を注ぎ出して「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われたのです(14章1節)。イエス様は、この世を去ろうとしています。しかし、それは永遠の別れではないのです。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て。あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(14章2節~4節)。ある意味、これはその場にいる人たちにとって直接の慰めをもたらすものではなかったと思われますが、のちに、イエス様の十字架の処刑に直面し、イエス様が葬られたのち、(あるいは復活された後になって)、弟子たち一人一人の生活の中で、この約束のことばが弟子たちを動揺から救い出したのではないかと思われます。「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです」(14章18節)という約束も、弟子たちを不安から立ち直らせたことと思います。そして、イエス様は重ねて、弟子たちに言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を残します。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(14章27節)。また、具体的に、もう一人の助け主である聖霊をお遣わしになることを約束されました。どれ程まで深く、イエス様は弟子たちのことをお考えになっていたか、文字通り、この最後の晩餐にあたって、イエス様はご自分の愛を残すところなく弟子たちに現されたのです。

清宣教師