ここまでは、聖霊様の著しい働きを通して、次から次へと神のみわざが現されて、エルサレム教会は日毎に救われる魂が与えられて成長していました。その数も、3千人から5千人、1万人へと膨れ上がっていったものと推測されます。彼らは家々でパンを裂き、それぞれの財産を自分のものとして主張せず、お互いに共有し、さらに、貧しいものには、必要に応じて支援がなされていました。神の御国が、この地上に出現したような状況でした。今日の使徒の働き5章は、「ところが」ということばから始まります。まさに、神の国が、からしだねのような一粒から始まり、大きく成長していくようなところに、突然、死を伴う事件が起こりました。それは、アナニヤとサッピラという夫妻が、『サタン』に心を奪われ、『聖霊』を欺いたために、ペテロの裁きの宣言により、息絶えて死んでしまったのです。現代の私たちからすると、刑が重すぎるように感じると思いますが、その当時の状況は、現代とは異なり、彼らは聖霊様の著しいみわざのただ中で生きていたのです。多く与えられている者は多くを要求されるという、聖書のことばがありますが、彼らは生ける神の働きの真っただ中に生きる特別な祝福が与えられていたのです。それを軽んじたために、サタンに心を奪われて、聖霊を欺く罪を犯してしまいました。彼らの死を通して、教会に何が起こったでしょうか。「これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた」(使徒の働き5章5節)と記されています。さらに、繰り返して、「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた」(5章11節)と記されています。こうして、教会全体がきよめられました。ひとつの罪が、全体を破壊してしまうことがあります。旧約聖書の中では、イスラエルの民が、エリコを攻め落とした時に、同じようなことが起こりました。40年の荒野での生活を通して、不信仰の罪を犯した、古い世代の人たちはみな死に絶えました。そして、ヨシュアとカレブの二人を除き、新しい世代のイスラエルの民(約200万人)が約束の地に入りました。約束の地に入る時には、増水期のヨルダン川が、上流のところで堰き止められて、イスラエルの民はみな、乾いた川底を歩いて渡ることができました。そのほか、多くの神の御業を彼らは体験しました。そして、イスラエルの民は、奇跡的な神のみわざにより、ひとりの死傷者もださずに、エリコを攻略することが出来ました。その時、イスラエルの民たちは、事前に、神様からエリコの人たちのものは、神のもの(聖絶のもの)であり、決して手を付けてはならないと言われていたのでした。「ところが」、アカンという一人の男が、美しい外套1枚と銀200シェケル、それに50シェケルの金の延べ棒を盗み出し、自分のテントに隠してしまいました。その結果、イスラエルの民は、神の守りをうけることができずに、次のアイの町を攻略するにあたり、多くの死傷者が出てしまいました。神の民の中の一人の人の反逆は、一つの小さな穴から堤防が決壊するように、神の民全体に大きな損害をあたえるものです。神様の著しいみわざが行われている所では、普段は小さな罪にみえるものでも、大きな損害を与えることになるので、厳しい裁きがなされるようです。

アナニヤとサッピラの死を通して、エルサレム教会全体が、もう一度、神の前にきよめられて、健全に成長するように矯正されたのです。その結果、再び、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われるようになり、みなはひとつ心になることが出来ました(5章12節)。サタンに心を奪われることがないように、「私たちを試みに遭わせず、悪よりお守り下さい」と祈り続けましょう。

清宣教師