さて、パウロは、アグリッパ王とベルニケ、総督フェスト、千人隊長、カイザリヤ市の首脳たちが一堂に会している講堂に、いよいよ、入場することになりました(25章23節)。フェストが、出席者に対して、まず、総督フェストが、この集まりの趣旨について説明ました。とくにアグリッパ王に対して、協力を求めるものであることも説明しました。(25章26節、27節)。さて、アグリッパ王はパウロに対して「あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい」と言いました。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明し始めました。パウロは、イエス・キリストの証しを、公けに、多くの人たちに語る機会を得たのです。主がアナニヤを通して、パウロに語られたことが実現しているのです。「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの前に運ぶ、わたしの選びの器です」(使徒の働き9章15節)。また、かつて、イエス様は弟子たちに次のように言われたことがあります。「人々はあなたがを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王や総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなたがたの証しをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます」(ルカの福音書21章12節~15節参照)。こうして、パウロは、弁明を始めました。パウロ自身の回心の証しでした。第1に、回心前のこと(4節~11節)、第2に、回心のこと(12節~18節)、第3に、回心後のこと(19節~23節)、これは弁明という名を借りた伝道説教でした。証しというのは、個人の体験であり、否定しようがないものであり、また、分り易いものです。私たちも、イエス様を信じる前、信じたとき、信じた後のことを分り易く、お話しできたらと思います。この中で私なりに心に響いたのは、パウロが主から、「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救いだし、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって、御国を受け継がせるためです。」(26章16節~18節)の個所でした。改めて、宣教の目的、主が私を宣教の器として召された目的を教えられました。私たちの宣教の目的は、ここにあります。さて、パウロが伝道説教をしていることに気付いたフェストが、口出ししました。それをきっかけに、パウロはアグリッパ王に信仰の決断を促しました。アグリッパ王は、「あなたはわずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言い訳して、直接的な回答を避けました。しかし、パウロは、「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人々がみな、この鎖を別として、私のようになってくださることです。」と言って、メッセージを閉じました。私の想像ですが、ここで、どっと、大きな笑いが起こったと思います。「この鎖は別として」というユーモアが緊張の中に、笑いをもたらし、パウロが切に願っていることが、イエスを信じることであるということが、良くわかったと思います。また、パウロが何も死刑や投獄にあたることをしていないことを、聴衆たちに確信させたと思われます。

清宣教師