ローマの教会は、パウロが建てた教会ではありません。それで、ローマ人への手紙は、パウロが建てた他の教会(コリント教会やテサロニケの教会など)に宛てた手紙とは異なり、牧会上の問題に対する具体的な指示などはなく、むしろ、福音の教理とその適用を一般的な形でまとめた神学論文のようなかたちをしています。また、パウロにとっては未知の教会であったため、1章の冒頭の挨拶、また、16章には多くの個人的な名前を挙げて、挨拶しています。まず、1章1節~7節で、入念な自己紹介から始めています。1章8節~15節で、ローマ教会を訪問したいという希望をのべています。こうして、まだ会ったことがないローマの教会の兄弟姉妹との間にある壁を取り除いて、本題に入っていきます。次の1章16節と17節、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」。これが、ローマ人への手紙の全体のテーマであり、心臓部である言われています。

そして、次の1章18節~32節で異邦人の罪、2章1節~3章8節でユダヤ人の罪、3章9節~20節で全ての人の罪を、それぞれ取り上げています。つまり、1章18節~3章20節までの個所で、パウロは、すべての人は罪人であることを述べています。さて、1章には、創造論の宣教のかなめの聖句も登場します。ローマ人への手紙1章20節です。そこには、天地創造の初めから、創造主は、創造主の作品を通して、創造主の存在とご性質を啓示されていると記されています。たとえ、人生において聖書に出会ったことがなくても、人間はみな、この地上に生きており、創造主の作品に囲まれて生きています。だから、「創造主などいない」という弁解は、創造主の前では通用しないと断言しています。創造主の作品なのです。創造主の作品があるということは、作者である創造主がおられるということです。実に、単純なことなのですが、人々は自分の知恵のゆえに、かえって愚かになり、真理を見失っているのです。

それでは、ローマ人への手紙を楽しんでください。

清宣教師