3章では、「では、ユダヤ人にとって、自分たちを罪に定めるこの割礼や律法には、どんな意味があったのでしょう。」という質問から始めています。それは、第1に、世界中で神のことばを委ねられた唯一の民である、ということです。それは、不従順な民のゆえに、神の御名を汚してしまいましたが、しかし、本来のユダヤ人の使命は、神の素晴らしさを証しする民として選ばれたのです。でも、ひとつ質問が起こってきます。それは、ユダヤ人の不従順のゆえに裁きを受けることにより、神の真理が明らかになるのであれば、なぜ、ユダヤ人が裁きを受けるのでしょうか、という質問でした。また、罪を義とするのが神の福音であるなら、さらに大きな罪を犯すことにより、さらに大きな神の義が明らかになるのだから、罪を犯した方が、神の栄光になるのではないか、という質問も出てきました。それに対してパウロは「もちろん、このように論じる者どもは、当然罪に定められるのです」と答えています。このような質問は、人間的な屁理屈であり、こんな理屈で、自分たちの罪深い性質を正当化することは出来ません。

「私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべてのひとが罪の下にあると責めたのです」(3章9節)。ここまで、異邦人の罪(1章18節~32節)、ユダヤ人の罪(2章1節~3章8節)を指摘してきましたが、この3章9節~20節は、もう一度、すべての人は罪人であることを再度、強調しています。「義人はいない。ひとりもいない」、「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」と結論付けています。そして、3章21節~31節で、パウロは信仰による義認の道を解き明かしています。私たち、全世界の人類は紛れもなく罪人でり、その罪人が救われる唯一の道は、イエス・キリストを救い主として信じる道である、と断言しています。すべての人は罪を犯したので神から栄誉を受けることが出来ない。しかし、神の恵みにより、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。この道だけが、救いを得る唯一の道であると、パウロは断言します。旧約聖書でも、そのことは示されていました。罪を犯した者は、祭司の前で、自分の身代わりに小羊を捧げました。傷のない全き小羊は両手両足を縛られて、祭壇の上に置かれました。そして、祭司の手によってナイフで、のどを切り裂かれて、その血が祭壇の上で流されました。同じように、神の御子は、両手両足を十字架に釘づけにされて、そのいのちを断たれました。神の御子が、ご自分のいのちの代価を払うことにより、私たちは値なしに(代価を払うことなしに)、神の前にすべての罪が赦された者(罪のない者)、つまり義と認められたのです。神は、御子の代価を支払うことにより、人類の罪を赦されました。ここに神の義が示されました。そして、神の愛が示されました。ユダヤ人も、ギリシャ人も、ただ、神の御子を信じる信仰によってのみ、罪赦されて、義とされるのです。これは神の律法を無効にすることではなく、この唯一の道によって、神の律法が全う(確立)されたのです(3章31節)。私たちは、イエス・キリストの十字架による贖いのゆえに、罪を赦された者です。神の怒りが取り去られ、罪の呪いが取り去られました。父なる神は、私たちの何万、何十万、何億とある罪を、ひとつも残さずに取り去って下さいました。もしひとつでも残っているなら、私たちは神の家族になることは出来ませんでした。御国の一員となることは出来ませんでした。主イエス様は、すべての罪を取り除いてくださいました。そして、イエス様の義の衣をもって、私たちを覆ってくださいました。私たちは、聖霊によって新しく神の子として生れたものです。私たちは、変えられたのです。私たちの人生は、変えられました。もはや、古い人生を歩むことは出来ないのです。180度変えられたのです。私は古い私ではありません。神によって新しく変えられた私です。罪の中に留まる私ではなく、主の栄光を表す人生を歩む私になりました。主よ、私たちの人生をうけとってください。

清宣教師