ローマ人への手紙5章~8章は、信仰による人生、つまり、キリストにある人生について述べています。

今日の5章は、論理的で、パウロの話の筋道が分り易いので、私が説明を加える必要がないと思いました。そのまま読んでいただくと、最後まで、なるほど、と納得しながら読み進めることと思います。でも、一応、私なりに説明を加えます。1節~11節は、神との平和がテーマとなっています。最初に、キリストを信じて罪の赦しと神の義をいただいたのだから、私たちは神との平和の関係の中にいれられたのです。そうはいっても、現実には信仰ゆえのもろもろの艱難もあります。しかし、神との平和を頂いている私たちにとっては、艱難から忍耐が産みだされ、忍耐から練られた品性が、さらに、練られた品性から希望が産みだされるのです。そして、この練られた品性から生み出される希望というのは、決して失望におわるものではないのです。なぜなら、私たちは神の愛をうけるものとなったからです。ところで、神の愛を疑っていますか、いえ、疑うことのできない証拠を神様は示してくださいました。なぜなら、正しい人や情け深い人のためには死ぬ人がいても不思議ではありませんが、不敬虔で自分勝手で自分を死ぬほど苦しめた人のために死ぬ人は、決していないでしょう。しかし、キリストは、ご自分に敵対し、不敬虔で、自分勝手な私たちのような者のために、私たちの罪を背負って十字架のむごたらしい死刑の刑罰を受けてくださいました。このキリストの愛は、真実であり、決して変わることがありません。そのキリストの身代わりの死によって、私たちは、神の怒りから救われるだけでなく、神と和解をさせられた者となったのです。私たちはみな、キリストにあって神との平和の関係にいれられたのです。疑う余地のない恵みのなかで、私たちは神様を、ともに、大いに喜びましょう。12節~21節は、キリストのいのちにあずかる恵みについて記されています。旧約聖書をみると、最初の人、アダムが罪を犯したために、世界に罪が入ったことが分ります。そして、罪によって死が入りました。当時、まだ十戒の律法はありませんでしたが、罪の結果、死が入りました。そして、全人類が罪を犯した結果、全人類に死が入りました。十戒の律法が入る前から罪は存在していたのです。また、律法が与えられたのちも、罪が存在しました。こうして、アダムが犯した罪が死をもたらし、全人類が罪を犯した結果、全人類の死をもたらしました。アダムに始まった「いのち」は、全人類のいのちのひな形です。それは罪の支配下にあり、その結果、誰もが逃れることが出来ない死の支配のもとにあるいのちです。これに対して、神様の救いの計画は、神の御子イエス・キリストを通して全人類を死から救い出すという計画でした。つまり、キリストを信じる者には、罪の赦しと神の義をあたえるばかりでなく、その結果としてキリストのいのちにあずかることを得させるという計画でした。こうして、キリストにある者は、死の支配から完全に解放されて、キリストのいのちのなかで、永遠に生きる救いの道が開かれたのです。アダムいう一人の人の罪が、全人類の罪と死をもたらしましたが、キリストの恵みと義は、キリストを信じる者に、新しい永遠のいのちをもたらしたのです。私たちは神様の恵みの支配の中におかれました。そこに、神との平和があり、永遠の交わり、永遠の喜び、永遠のいのちがあります。さて、5章は、信仰によって義と認められた人が受けるべき祝福について、教えています。信仰によって義とされた私たちは、以下の祝福を受けるのです。神との平和(5章)、キリストとの結合(6章)、律法からの解放(7章)、御霊によって生かされる(8章)。なんと、途方もない恵みでしょう!!!!!!!!!!!!!!

清宣教師