今日の個所は、3つの段落に別れています。第1に、1節―6節で、結婚関係において、夫を持つ妻が、夫と律法的に結ばれているのは、夫が生きている期間であり、夫が死んだ場合は、律法の支配から解放されて、別の男性と結婚しても姦淫の罪を犯したことにはなりません。同じようにクリスチャンは、古い自分に死んだ者であり、新しくキリストに結ばれて生きるものであり、律法からは解放された者として、新しい御霊によって生きる人生に迎え入れられたのです。第2に、7節―13節で、律法は人間を罪に定めますが、それでは律法は罪そのものなのでしょうか? そんなことは絶対にありません。律法は、人間に対して何が罪であるかを指摘するものであり、律法そのものは聖いものです。ただ、人間が律法に違反した結果、律法は、人間を罪ありとして死を宣告するのです。第3に、14節―25節で、私たちは罪のもとにあり、罪の奴隷として、自分がしたいという良い願いをも実行できない者です。律法が正しいことを認めているのに、律法が禁止している罪を犯してしまうのです。とすれば、もはや、クリスチャンとして生きている新しい自分ではなく、生まれつきの肉の性質の中に住みついている罪が、そうさせているのです。自分でしたいとおもう良い事を実行することができない自分、むしろ、自分でしたくないと思っている罪を犯してしまうとするなら、それは私自身ではなく、私たちの内に宿る罪、悪の原理があるということです。私の生まれつきの体の中には、罪の律法があり、私を虜にしているのです。クリスチャンとして、新しいいのちに生きる時に、私たちは、私たちのからだの中に住みついている罪の原理との戦いがあり、しかも、無力を感じるのです。そして、「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか?」という徹底的に打ちのめされた自分自身をみるようになります。これは肉の原理に従ってそれを良しとして人生を送っている人には、到底、分らないことです。しかし、クリスチャンとして神によって召され、キリストにある新しい御霊のいのちの原理に生きる者が味わう惨めさです。だからこそ、神の前に、ただただ、ひれ伏し委ねる以外にないことを知るのです。神の前に聖霊による聖化をもとめる人生、そして、最終的な贖いの完成を待ち望む人生、そこにこそ、唯一の完全な解決があるのです。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(25節)。

清宣教師