「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」私たちは、「いつも喜んでいなさい」というみことばを知っていますが、同時に、心の中のある部分を絶えず、離れない祈りの課題もあります。それは大きな悲しみと痛みを伴うものです。先日、未信者の方々との交わりがあり、会話の流れのなかで、ある人が何気なく「あの大震災さえなければ、・・・いま、あの人たちも、何事もなく暮らしていた・・」というようなことばが交わされました。その時、私の心の中にある未解決の苦しみを覚えました。それに対する主からの答えをまだ、いただいていないという痛みでした。それに、国と国の間、日本の行く末のこと、・・・それだけでなく、教会の中における未解決のもろもろの課題が心の中には絶えずあります。パウロのことばに、大きな慰めを受けました。大きな悲しみ、絶えざる痛みがあるということ、これもクリスチャンの人生の一面ですね。さて、これまでの1章から8章までの箇所では、個人の救いのことがテーマでしたが、9章から11章にかけて、ガラリと変わります。9章から11章では、共同体としてのイスラエルの救いに焦点があてられています。大雑把にわけると、9章が「神の選び」、10章が「イスラエルの責任」、11章が「イスラエルの同胞」12章が「イスラエルの救い」となります。今日の箇所で、もう一か所、教えられたのは、32節でした。「なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」イスラエルの民だけでなく、私たちクリスチャンもいつのまにか、信仰によって追い求めることを忘れて、生まれつきのやり方、肉のやりかたで、つまり自分の力で成し遂げようとしてしまうことがあります。自分の力ではなく、全能の主が治められていることのゆえに、信仰が大きな力を持つことを再認識させられました。信仰、主への信仰、そこに立つときに、すべての解決があります。目に見えるものではなく、目に見えない永遠の世界、全能の主が、父なる神の右に坐して、私たちの祈りを執り成しておられる姿を思い浮かべてみてください。私には大きな悲しみがあります。私の心には絶えず痛みがあります。ですから、私たちは祈り続けます。それがわたしたちの使命ですから。主よ。恵みによって、あなたの大きな御業を見せてください。私たちを造り変えて、完全に御霊のいのちに生きる者としてください。

清宣教師